超越論的人生論―いかに生くべきかを問う人生論ではなく

人生いかに生きるべきかを問うのではなく、なぜ私の人生が始まっているのかを問う人生論。

そもそも事実とは何か

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2013,5,23(木)
 
そもそも事実とは何か
(5月21日からのつづき)
 
しかし日常生活の中ではそのような独我論的な疑いはもたない。感覚・知覚は他者と共有しうるという信念のもとで私は世界を眺めている。その意味では私はたとえ一人で風景を眺めていようとも他者とともにそうしているのである。誰かがここに居合わせればその人は私が見ているのと同じ風景を見るはずだという信念をもって私はひとり風景を眺めているということだ。このとき風景は客観的実在として私の前に広がっている。それは私の視覚によるものだが、私だけに見える固有の風景として見えるのではない。この風景は客観的な事実である。私の非反省的信念はそう信じている。同様に聞こえる音も、食事のおいしさも、頭痛も、花の匂いも、急峻な山道を登るときの息苦しさも、およそあらゆる感覚・知覚経験は伝聞ではない直接的で客観的な事実として私に立ち現われている。だが、いったん〈これは私の知覚が生み出す幻影にすぎないのではないか。そもそも他人はどう知覚しているかまったくわからないのだから〉と疑えばたちまち目の前の確固たる事実は私の幻影かもしれないという独我論的世界に変わる。
 
事実の成立を支えるのは他者ーもうひとりの私としての他者なのである。
 
 
これで「そもそも事実とは何か」を終える。これまで自明のこととして「私の痛み」について語ってきた。しかし、〈これ〉が私の痛みだとどうしてわかるのだろうか。そして〈私の痛み〉はなぜ他人に漏出しないと言えるのだろうか。それを知りたい。次の機会に取り上げたい。
 
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2013,5,21(火)
 
5月20日からのつづき
 
非反省的な信念のもとでは、痛みなどの内部感覚も外部感覚である視覚によって見える風景もともに事実であり主観的事実、客観的事実の区別はないことがわかった。もう一度確認しておこう。他者とともに何かを見ているときは確かに〈同じものを見ている〉と強く感じている。また他者とともに同じ食べ物を食べているときは確かに〈同じ味を味わっている>という固い信念がある。
 
ここまではいいだろう。しかし痛みはどうなのか。痛みや快感などの内部感覚は本当に他人と共有できるのかと納得のいかない読者もまだいるのではないだろうか。だがそれは私と他者が何らかの痛みを生じさせるような同じ状況に身を置く経験をすることがほとんどないからである。では今度は快感をとってみよう。他者とともに快感を生じさせる同じ状況に身を置く経験ーセックス。〈この快感〉を相手も同じように感じている。これが非反省的な思いなのではないだろうか。私の記憶違いかもしれないが、かつて五木寛之さんは男女がそれぞれ別々に快楽を感じているのに一体になっているかのように錯覚しているとエッセーに書いていたような記憶がある。反省的にとらえれば確かに相手が同じ快感を感じているかどうか、いや、そもそも快感を感じているのかさえわからない。他者理解に対するこのような疑いを延長していけば、他者に心があるのかどうかさえ疑わしくなる。その行き着く先は、心があるのはこの私だけかもしれないという独我論である。
 
(つづきは後日)
2013、5、20(月)
 
そもそも事実とは何か
5月17日からのつづき
 
外部感覚であれ内部感覚であれ、その感覚を引き起こすような同じ状況のなかに他者と共にあるならば、私の感覚・知覚は他者と共有されているという信念が生じることがわかった。その信念のもとでは、痛みのように主観に属すると理解されている内部感覚は私のうちに閉じてはいない。そもそも内部感覚は主観に、外部感覚(が浮かび上がらせる対象物)は客観に属しているという常識が間違っているのかもしれない。
 
私と他者は必ずしも同時に同じ状況に身を置かなくとも、同様の経験があれば、言葉による記述だけでも私の感覚・知覚は他者と共有されるはずだという信念は維持される。「歯が痛いんだ」と言えば、相手は〈この痛み〉がわかるはずだという暗黙の思いで私は痛みを他人に訴える。その信念なしには他人に痛みを訴えても何の意味もないことになる。
 
非反省的信念においては私の感じる痛みは他者に対して開かれている。では他者の訴える痛みはどうなのだろうか。相手が「頭が痛いんだ」と言ったとき、私に頭痛の経験があれば私はそのときの痛みを思い出して、相手はこのような痛みを今感じているのだと思う。私がかつて感じたその痛みが相手が今感じている痛みなのだととっさに思う。ただしこの信念は非反省的にしか生じない。他者の頭痛はかつて私の感じた頭痛と同じだとなぜ言えるのだろうかと反省的にとらえるとその信念は急速に失われる。このことからも私の感覚は他者と共有しうる、また他者の感覚は私と共有しうるという信念は無意識的、暗黙的な信念であるということがわかる。だが非反省的にはなぜ他者の訴える痛みと自分がかつて経験した痛みが同じ感覚であると確信できるのだろうか?
 
「歯が痛い」という他者の発言は私の歯痛の経験を喚起する。痛みそのものは生じないが、それがどのような感じなのかを思い出させる。それは痛みの感覚に限らない。かつて経験した感覚はすべて思い出すことができる。味も匂いも感触も音も声も息苦しさもわくわく感も・・・すべての感覚の質を思い出すことができる。もちろん思い出された感覚は実際には生じているわけではないが、どのような感覚であるかはわかる。その感覚は今実際に私に生じているわけではないのに、その感覚を思い出すことができるとはどういうことなのか。
 
例えば赤い色を思い出すとしよう。もちろん赤い色が実際に見えているわけではないが、思い浮かべることはできている。赤い色を想像しているのと同じである。赤い色を実際に見ているとそれを想像しているのとでは異なるということがわかる。だから見ることと思い出すことの区別がつけられる。そしてもし思い出しているその赤色をクレヨンを使って紙に描きなさいと言われればそうすることができる。だが、「赤い色」という言葉を聞いたり見たりしなければ赤い色を思い出すきっかけは偶然に任せられる。確実に赤い色を思い出すためには「赤い色」という言葉が必要である。その意味で言語は今現在目撃している擬似的に〈今ここにある事実〉を生みだすのではないだろうか。
 
目の前の他者が「歯が痛い」と言えば、私に〈歯痛〉の感覚が擬似的に出現する(もっとも相手の言葉に親身になって耳を傾ければの話だが)。今相手は〈この歯痛〉を感じている。これが非反省的に理解した他者の痛みである。もちろん反省的に考えれば他者が感じているのは〈この歯痛〉であるという根拠は何もない。
 
 
(つづきは後日)
2013、5,17(木)
 
そもそも事実とは何か
(5月16日からのつづき)
 
常識では痛みというものは他者たちと共有されることはないという信念があり、他方では(今見えている)この青い空は他者と共有されているという信念がある。言い方を変えれば、痛みというものは主観的事実として、目の前に広がっている青空は客観的事実として受け止められる。しかし、元をたどればどちらも個々人の感覚に還元される。にもかかわらずなぜ一方は主観的と言われ他方は客観的と言われるのだろうか? 
 
痛みなどを感知する感覚は内部感覚と言われ、外部に対象物を現前させる視覚などの感覚は外部感覚と言われる。目の前に広がって見える青空について「雲一つないきれいな青空だね」と私が説明すると他人は「ほんとだね」とうなずく。また逆に相手が風景について説明すると確かにその言葉通りの情景が私にも見えている。私の外部感覚と他人のそれはあたかもつなげられているかのようである。しかし私が自分の頭痛について説明しても相手は「まったくそのとおりだ」とは言わないし、相手が胃の痛さについて説明しても私はそういうものかとただ聞いているほかはない。
 
しかし私は他人に見えている風景をじかに感じ取っているわけではない。それは相手の痛みがじかにわからないのと同じことである。ではいったい何が違うというか? 
 
外部感覚であれ内部感覚であれ、その感覚を引き起こすような状況に自分も他人も置かれるならその感覚を共有しているかのような錯覚が生じるのではないだろうか。先の例での痛みは外部的な原因によって生じたものではなかったからその痛みの感覚を分かち合えなかったのではないか。青空が見えるという例では私も相手もともに同じ状況にいたからこそ共有しているかのように感じたのではないか。痛みの場合であっても、もし同じ状況で同程度のケガをして、私が自分の痛みについて説明したら相手は「そのとおりだよ」とうなずくに違いない。私の痛覚神経と他人のそれはつながっているはずはないのだが、この場合ならば青空を見ているときのようにあたかもつながっているかのように感じるかもしれない。
 
食べ物の味について考えてみよう。同じ食べ物を食べて互いに「おいしいね」とうなずき合っているとき、私と他者は同じものを食べて同じ味を感じていると確信している。しかし、私だけがそれを食べていたとしたらどうだろうか。私はある味を感じている。だからといって何も口にしていない相手もまた〈この味〉を感じているのだと私は確信できるだろうか。できるはずはない。また私と他者が違う食べ物を食べていたらどうだろうか。私が味わっている〈この味〉を相手もまた味わっていると私は確信するだろうか。私がカレーを食べていて感じる味をハンバーグを食べている相手もまた感じているはずだと思うだろうか。そんなばかなことはないだろう。
 
 
(つづきは後日)
2013、5、16(木)
 
そもそも事実とは何か
(5月14日からのつづき)http://blogs.yahoo.co.jp/tichan616/31808704.html
 
幼児はそれから逃れたいような不快な感覚を養育者などから、例えば「いたかったね」あるいは逆に「いたくない、いたくない」などと反語的に指摘されることによって、その感覚が「痛み」であることを学ぶ。感覚それ自体としては、腹の「痛み」、歯の「痛み」、手を切ったときの「痛み」、何かに頭や足をぶつけたときの「痛み」、やけどをしたときの「痛み」などはそれぞれ違う感覚だが、それから逃れたいような嫌な感覚という意味で一様に「痛み」として受け止めるようになる。
 
〈この痛みはぼくだけでなくお母さんも感じている〉。幼児ははじめはそのように思うかもしれない。しかし以下のような経験によってその考えは修正されていくと考えられる。自分以外の人間が〈この痛み〉に気づかないこともあるという経験。痛みはいつも必ず〈この自分の体〉に生じるという経験。さらに自分が転んだときは現に痛いのに、他の子がころんだときには少しも痛くはないという経験。相手は「歯が痛い」と言っているのに自分はまったく痛くないという経験。自分は歯が痛いのに周りの誰も歯が痛いとは言わないし、そのようなそぶりも見せないという経験。
 
そうしてかなり早い段階で、〈この痛み〉は自分の体のうちに閉じていて他人に伝わることはないと考えるようになる。たくさんの人間のうちで本当に痛みを感じるのが自分で、〈実際に痛みが生じない〉人間が他人なのだという自分と他人との根源的な区別を知る。「誰もが痛みを感じるものだ」という常識にがんじがらめになっているとこれは奇妙に聞こえるかもしれない。しかしそうでなければいったいどうやって自分と他人の区別をするのだろうか。
 
とはいえ他人が痛みをまったく感じない無痛人間だと考えているわけではない。自分が頭を何かにぶつければ痛いのと同様に、他人も同じような状況では痛みを感じるだろうと推測する。これはあくまで推測である。他人が頭をどこかにぶつけようと実際には痛みは生じないからである。しかしそういう状況では他人は痛そうにしていることがその推論の正しさに根拠を与える。最終的には痛みというものはそれぞれの人が個別に感じるものだという健全な常識に至る。
 
このような常識のもとでは、ある同一の痛みがみんなで共有されることはないという信念が形成されている。これは、例えばこの青い空は私だけに見えているのではないという信念と対照的である。外部感覚が生み出す対象物は人それぞれが個別に認知するわけでないという信念がある。痛みの感覚と視覚とはなぜそれほどに異なる信念を形成するのだろうか。視覚といえども痛みと同じように最終的には人それぞれが個別に感じる感覚ではないのか。こんどは味覚について検討してみる。
 
(つづきは後日)

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