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私は思考の主体か(22)
目次
1 私の問題意識
2 生まれ替わりの想像 3 思考の主体としての私 4 思考の言葉が聞こえる 5 黙読・雑念・幻聴 (ア)黙読 (イ)雑念 (ウ)幻聴 6 思考と幻聴 (ア)外部空間から聞こえる音、頭の中で聞こえる音 (イ)聞こえるのは誰の声か 7 思考するとは何をすることか 8 私は内語する主体か (ア)発話と内語 (イ)行為と内語 (ウ)私は自由に内語できるか (エ)内語するということの虚構性 9 発話に先立って言葉が聞こえる 10 〈私〉の誕生 9 発話に先立って言葉が聞こえる(4)
実際に「ア」と発音する場合にも実はただそれに気づきにくいだけでその直前に〈ア〉と聞こえているのではないか。。つまりこういうことである。「ア」と言おうとすると聴覚表象――それは儚いクオリアで聞こえる――として〈ア〉と聞こえるが、その直後に今度は本物の聴覚――それは確固としたクオリアで聞こえる――として「ア」と聞こえるために、聴覚表象の〈ア〉は聴覚の「ア」にかき消されてしまうのではないだろうか。
もう少し実験を進めてみよう。聴覚の音と聴覚表象の音とを分離する実験である。まず「アー」「イー」「ウー」と順番に発声していく。始めに「アー」と発音する。「アー」と実際の声が聞こえる以外は聴覚表象として何も聞こえない。これは先の実験の通りである。注意を払うべきは発音を「アー」から「イー」に変える瞬間である。このとき「イー」と言う直前に表象として〈イー〉と聞こえないか。聴覚としては「アー」と聞こえながら同時に表象としては〈イー〉と聞こえている。つづいて表象としての〈イー〉は実際の音の「イー」に移行して、と言うよりも表象としての〈イー〉に実際の音の「イー」が重なり〈イー〉は消える。その後には実際の音の「イー」が聞こえながら同時に今度は表象として〈ウー〉と聞こえる。このようなことが「アー、イー、ウー」と順次発音されていく過程で生じている。この経過をまとめると次のようになる。先に断った通り「 」は耳から聞こえる実際の音、〈 〉は頭の中で聞こえる聴覚表象としての音を表す。
「アー・イー・ウー」と順番に発音する実験
〜「アー」とのみ聞こえる 〜「アー」と〈イー〉が同時に、一方では耳から他方は聴覚表象として聞こえる 〜「イー」のみが聞こえる(〈イー〉に「イー」が重なり〈イー〉は消える) 〜「イー」と〈ウー〉が同時に、一方では耳から他方は聴覚表象として聞こえる 〜「ウー」のみが聞こえる(〈ウー〉に「ウー」が重なり〈ウー〉は消える) 実際の音としての「アー」と聴覚表象としての〈イー〉とが聞き分けられたのはその二つの音が異なるからである。同じ音ならば、例えば実際の音としての「アー」と聴覚表象としての〈アー〉とを区別することは不可能であろう。それは例えば、パルテノン神殿を見ながら当のパルテノン神殿を想像することができないのと同様である。試しに、「アー・アー・アー」と同じ音を順次発音してみるとよい。一番目の「アー」から二番目の「アー」に変わる瞬間に、実際の音としての「アー」が聞こえながら表象としての〈アー〉もまた聞こえるはずであるがその区別はつかず、ただ実際の音である「アー」が聞こえるだけである。
以上の実験・考察から明らかになったことは、発音に先立って必ず発音すべき音が聴覚表象として聞こえているという事実である。この実験でそのことが実感しにくかったなら、パソコンのキーで「ア・イ・ウ・エ・オ」と打ってみるとよい。キーを打つとき必ず打つべき文字の音が頭の中で聞こえているはずである。それが聞こえることなしにしかるべきキーを打つことはできない。もし何も聞こえないというならその人は指が勝手にキーを打っていることになる。キーを打つことを発音することに置き換えて考えてもらえばよい。発音する直前に何も頭の中で聞こえないというならその人は口が勝手に動いて勝手な音を発しているということになる。
文字を音読する場合も同様のことが起きている。スムーズに音読するためには何文字か先まで目で追う必要がある。それは音読するより先に黙読して聴覚表象としての音声を事前に聞く必要があるからである。音読しつつ同時にその少し先を黙読しているのである。文字を読むということはその読み方、つまり音声を聞くということなのである。
「ア」や「ツ」など言葉の音を発音するとき発音に先立ってその音が聴覚表象として聞こえていることがわかった。言葉は音のかたまりである。単語を発音する場合もその一音一音が事前に頭の中で聞こえていることになる。それは結局ひとつの文についても言える。例えば「今日は晴れている」と発話するとき、音の一音一音が発音される。ということはこの文を発話する直前に〈キョウ・ワ・ハ・レ・テ・イ・ル〉と順番に聴覚表象として聞こえているはずである。だが、聞こえるのと発話がほとんど同時であるがためにわれわれはそのことに気づかないだけなのである。そう結論せざるをえない。われわれは言葉を話すとき、聴覚表象として聞こえてくる言葉をそのまま発話している。私が発話している、私が内語している思い込んでいるが、私はただどこからともなくふと聞こえてくる言葉を聞き、その通りに内語し(つまり思考し)、発話しているだけなのである。
(つづく)
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私は思考の主体か
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私は思考の主体か(21)
目次
1 私の問題意識
2 生まれ替わりの想像 3 思考の主体としての私 4 思考の言葉が聞こえる 5 黙読・雑念・幻聴 (ア)黙読 (イ)雑念 (ウ)幻聴 6 思考と幻聴 (ア)外部空間から聞こえる音、頭の中で聞こえる音 (イ)聞こえるのは誰の声か 7 思考するとは何をすることか 8 私は内語する主体か (ア)発話と内語 (イ)行為と内語 (ウ)私は自由に内語できるか (エ)内語するということの虚構性 9 発話に先立って言葉が聞こえる 10 〈私〉の誕生 9 発話に先立って言葉が聞こえる(3)
ある特定の音節を発音することを意図せずに、ただ単に口を適当に開けてみる。このときどのような音も聴覚表象として聞こえることはなく、またこの口の形からどのような音が発音されるのかも想像できない。
発声器官の一定の運動パターン(または形状パターン)とそれが発する音節とは一対一に対応している。だが、発声器官の運動パターン・状態の内部感覚からはどのような音が発音されるかはわからない。ということはある音節を発音する口の形をしたからその音節が聴覚表象として聞こえると解釈するのは不自然である。それではなぜ「ア」と発音する口の形をすると〈ア〉と聞こえるのか。それは「ア」と発音する態勢を取るためには〈ア〉という聴覚表象が必要だからではないか。つまり聴覚表象なしには「ア」と発音できないのではないか。そう考えると、「ア」と発音する態勢をとるから〈ア〉と聞こえるのではなく、逆に〈ア〉という聴覚表象に導かれてそれを発音する態勢をとることができるのではないかと考えられる。
だが、〈ア〉という聴覚表象が生じれば、必ず「ア」と発音する態勢がとられるというわけではない。もしそうなら、考えているときは必ず口が動いてしまうはずである。確かに思考しているとき口が無意識に動くことがあるが、いつも必ずというわけではない。「ア」と発音する態勢をとるためにはそれに先立って必ず〈ア〉という聴覚表象が必要だが、聴覚表象が聞こえたからといって必ずその態勢がとられるわけではない。
以上のように考察すると、「ア」と発音するときその直前に必ず聴覚表象として〈ア〉と聞こえてるのでなければならない。しかし最初の実験で確かめたようにこのような事実は見いだせなかった。それで今度は実際に「ア」と発音せずに「ア」と発音しようと意図してみる。するとどうだろう、頭の中で〈ア〉と聞こえるのである。実際に「ア」と言うとその直前に〈ア〉の聴覚表象は生ぜず、ただ「ア」と言おうとすると〈ア〉と聞こえるのである。この違いはどう考えたらよいのだろうか?
(つづく)
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私は思考の主体か(20)
目次
1 私の問題意識
2 生まれ替わりの想像 3 思考の主体としての私 4 思考の言葉が聞こえる 5 黙読・雑念・幻聴 (ア)黙読 (イ)雑念 (ウ)幻聴 6 思考と幻聴 (ア)外部空間から聞こえる音、頭の中で聞こえる音 (イ)聞こえるのは誰の声か 7 思考するとは何をすることか 8 私は内語する主体か (ア)発話と内語 (イ)行為と内語 (ウ)私は自由に内語できるか (エ)内語するということの虚構性 9 発話に先立って言葉が聞こえる 10 〈私〉の誕生 9 発話に先立って言葉が聞こえる(2)
では具体的に検討していこう。 まず「ア」と発音してみる。口が開き、息が吐き出されながら喉のあたりがわずかに震える感覚が生じ…つまり発声器官が働く感覚が生じ、それと同時に声がこの個体の頭部前方やや下の内部のあたりから聞こえる。
このとき「ア」という音が耳から聞こえるまでは、どのような音声を自分が発音しようとしているのかわからないということはあるだろうか。そんなバカなことはあるまい。もしそうだとすれば、「ア」という音は私の意図から独立に発声されたということになる。私は「ア」と発音しようとして「ア」と発音したはずである。では私はどうやって自分が「ア」と発音しようとしていることを事前に知ることができたのだろうか? この問いは何度も繰り返し問うべき問いである。
〈「ア」トイウゾ〉と内語したからではないだろうか。我々の今までの考察にもとづいて正確に言えば、「内語した」のではなくそういう言葉がどこからともなく“聞こえて”きたからである。〈「ア」トイウゾ〉という言葉がこの行為の意志として作用する。だから、実際に「ア」と発音するに先立って「ア」と言おうとしていることを私は知っているのである。
このことは「ア」と発音しようとすれば、実際の発音に先立って聴覚表象として〈ア〉という音が聞こえているということを意味する。そうでなければ自分がどのような音を発音しようとしているのか行為に先立って知ることはできない。これからは説明を簡素にするために耳から聞こえる音を「ア」、頭の中で聞こえる聴覚表象としての音を〈ア〉と表記することにしよう。
ではもう一度、「ア」と実際に言ってみる。しかし耳から「ア」と聞こえるだけである。予想に反して「ア」と発音する直前に頭の中で〈ア〉は聞こえない。こんどは実際に発音せずに「ア」と発音するときの発声器官の態勢(口の開け方、舌の位置、口唇の形など。以下単純に「口の形」と表現する)を取ってみる。すると、確かに〈ア〉と聞こえる。今度は「イ」と発音するときの口の形をしてみると今度は〈イ〉と聞こえる。「ウ」と言うときの口の形をすれば〈ウ〉と聞こえる。読者の方は自分で是非やってみてほしい。
ここで問題になるのは、「ア」と発音する態勢を取ったから〈ア〉と頭の中で聞こえるのか、それとも逆に先に〈ア〉と聞こえるからそう発音する態勢を取ることができたのかということである。
(つづく)
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私は思考の主体か(19)
9 発話に先立って言葉が聞こえる(1)
内語は身体行為ではない。したがってこの個体が行っているという証拠はない。また私の自由意志によって行われるものではない。したがって私は内語する主体ではない。概略的にはこのように論証した。しかし、まだ重要な問題が残されている。発話の問題である。なぜ発話が問題になるのか始めに説明しておきたい。
考えるということは言葉を発することである。言葉を発する仕方には二通りあり、ひとつは実際に声に出して言葉を発する発話、もうひとつは声に出さないで言葉を発する内語である。今まで主に検討してきたのは内語についてである。内語は心的活動であるがために外部からは観察不可能である。そればかりではなく内観、内省によっても私が内語しているという証拠は見いだせなかった。しかし発話は違う。発話行為は外部から観察可能で、私自身も観察できる身体行為である。それは例えば歩行という行為が観察可能であるというのと同様である。したがって、私が発話するとき、他人から見ても私から見てもこの個体が言葉を発していることは明白である。それでも私は発話の主体ではないと言えるのだろうか。「私は思考の主体ではない」と主張するには、「私は内語する主体ではない」ということばかりでなく「私は発話の主体はない」ということをも論証しなければならない。
以上が発話について詳しく検討していく理由である。最初に結論を示しておきたい。発話は前もって聴覚表象として聞こえる言葉をなぞって行われるということ。つまり内語が発話に先立っている。ということは、思考は発話時において遂行されるのではなく、すでに聴覚表象として言葉が聞こえた時点でなされている。確かに発話しているのは私(この個体)であるが、発話が内語によって導かれている以上私(この個体)が思考しているとは言えない。これが結論である。
(つづく)
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私は思考の主体か(18)
8 私は内語する主体か(6)
(エ) 内語するということの虚構性
今までの議論の流れを振り返っておこう。我々の見解によれば〈考える〉ということは言葉を発するというこということであった。だが発話の場合はともかく、内語の場合、私が頭の中で言葉を発しているという根拠や証拠を見いだすことはできなかった。にもかかわらず実感としては、私自身が内語している、つまり私自身が考えているという強い思いがあった。その理由は突き詰めていくと、私が内語するからその言葉が“聞こえ”、さらに内語つまり思考は私の自由になる、だから私が内語(思考)しているのだという強い信念があるからだということがつきとめられた。だが、内語(思考)は私の意志によって遂行されているとは言えないことを論証した。
この節ではさらに、そもそも内語するということが虚構の概念ではないかということまで踏み込んでみたい。結論を先回りして言えば、内語するという能動的な活動はなく、言葉が聴覚表象として聞こえるという受動的な事態だけがあるということを明らかにしたい。そしてそれはそのまま私は思考していないということ、つまり私は思考の主体ではないということ、最終的には思考の主体・意識主体としての〈私〉、すなわち魂としての〈私〉や生まれ替わりの主体としての〈私〉(注)は存在しないという究極の地点にまで到達したい。
さて、見通しを立てたところで、私が内語するということの虚構性についてみていこう。発話するとは言葉を声に出して言うことであり、内語するとは口を動かさず実際には声を出さないで言葉を“言う”ことであった。このように説明されると、発話と内語の違いはただ声を出すか出さないかの違いだと簡単に考えてしまうかもしれない。しかしことはそう単純ではない。発話と対比しながら「内語する」ということについて検討してみよう。
発話するということは、実際に発声器官が動き、かつその内部感覚が生じ、そして自分の声が実際に聞こえるということであった。発話するということは例えば歩くということと同様どちらも身体行為という点で同じである。
ところで自分が動作や行為をしているところを想像すると、実際にそれを行うときに伴う感覚が擬似的に生じる。例えば右手を上げる想像をすると、実際にそうするときに動く筋肉や関節の内部感覚が擬似的に生じる。動作や行為を想像することはそれを擬似的に経験していることになる。スポーツ選手が行うイメージトレーニングに意味があるのはその運動に伴う身体のさまざまな感覚が擬似的にせよ生じるからだろう。それと同様に声に出して話すことを想像すると、口や舌、唇が動く感覚が擬似的に生じ、自分の声が擬似的に聞こえる。この「擬似的に聞こえる」というのは今までの言い方をすれば「頭の中で聞こえる」「聴覚表象として聞こえる」という意味と同じである。さて、発話の想像において、もし擬似的にせよ自分の声が聞こえないならば、結婚披露宴で自分がスピーチしているところを想像することはできないだろう。その想像は無音で口をパクパクしているところの想像にしかならない。だから、発話する想像では擬似的に自分の声が聞こえるのでなければならない。
先に内語するとは口を動かさず声を出さずに言葉を発することだと書いた。つまり頭の中で言葉を発するということだ。それでは、内語するとは発話するところを想像することなのだろうか。違うだろう。発話しているのを想像することと実際に内語することとは大きな違いがある。
私が考えているとき、つまり内語しているときに自分の発声器官が動く擬似的な感覚が生じるだろうか。確かに思考内容である言葉が“聞こえる”という擬似的な聴覚(聴覚表象)は生じている。だが声帯や口唇、舌、下顎などが動く運動感覚は擬似的にも感じない。これが発話の想像と内語との違いである。内語するということは発話しているところを想像することではない。もうひとつ相違点がある。ここでは重要なことではないが、内語では聴覚表象として聞こえる“声”に特徴はなく、誰の声と特定できないのに対して、発話の想像では擬似的に聞こえる“声”は自分の声だと特定できる。
次に自分が発話している想像と自分の声が聞こえるという想像とを比べてみよう。両者に共通しているのは、自分の声が頭の中で聞こえるという擬似的な聴覚経験である。そしてどちらの“声”も自分の声の特徴をもっている。ではこの二つの想像を区別する指標は何だろうか。それは発声器官が働く擬似的な感覚が生じるか否かである。もしそれがあるなら発話の想像であり、ないなら自分の声が聞こえるという想像である。
内語するとき(考えるときと言ってもよいが)当然発声器官は実際に動かないし、またそれが擬似的に動く感覚も生じない。ただ言葉が擬似聴覚的に聞こえるだけである。ということは、内語するということと擬似的に言葉が聞こえるということは区別することができないということになる。すなわち聴覚表象として〈言葉が聞こえる〉ということと〈内語する〉ということは同じことなのである。さらに言えば、発声器官を動かさずに、またそれが擬似的にも動く感覚は生じずに、擬似的に言葉が聞こえる(頭の中で言葉が聞こえる)ということをもって「内語する」ということにしたとも考えられるのである。以上を表にまとめる。
A B C D
(1)発話する 動く 実際にある 実際に聞こえる
(2)発話の想像 動かない 擬似的にある 擬似的に聞こえる (3)声が聞こえる想像 動かない まったくない 擬似的に聞こえる (4)内語する 動かない まったくない 擬似的に聞こえる A・・・何をするか B・・・発声器官が動くか C・・・発声器官が動く感覚があるか
D・・・声がどう聞こえるか (注) Dにおいて(2)と(3)は擬似的に聞こえる“声”は自分自身の声だと特定できる。(4)だけが“声”に特徴はなく誰の声とも特定できない。
このように検討していくと、〈内語する〉ということ、すなわち〈考える〉ということは〈不意に・外部空間のどこからでもなく・誰の声でもなく・言葉が・聞こえてくる〉ということと同値であることがわかる。これが思考するということのの本態である。このことは思考の主体なるものは特定できないということを意味する。少なくともそれは私ではない。
(注) 「生まれ替わりの主体としての〈私〉」については「私は思考の主体か(3)」http://blogs.yahoo.co.jp/tichan616/31945841.htmlを参照のこと
(つづく)
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