超越論的人生論―いかに生くべきかを問う人生論ではなく

人生いかに生きるべきかを問うのではなく、なぜ私の人生が始まっているのかを問う人生論。

私の死を想像することは・・・

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6月17日(月)からのつづき
 
以上のことを映画のシーンに置き換えるとどうなるだろうか。例えば、ある家族がダイニングルームで食事をしているシーンを見ているとしよう。その様子がまるですぐ間近で見ているかのように見えている。この映像は家族の誰かから見たものなのだろうか。視点はさまざまに移り変わり家族の誰かから見た映像であるとも特定できない。そもそもこの家族の食事シーンはスクリーンに映し出された映像とはいえ私に見えている風景ではないのか。私が他人のプライベートな場面を覗き見るのではなく見ているということになる。このような状況は現実にはありえない。だが観客である私は不自然さを感じない。私が映画の文法とでもいうべきものを知っている現代人だからだろうか。しかし、場面の視点にいつもカメラの存在を意識しつつ見ているわけではない。もっとその場面に没入している。
 
いったいこれはどういう場面なのだろうか。考えてみると、この映像は私が他人の家族の食事風景を想像しているイメージとそっくりである。とするとこの場面は想像における視覚イメージが実際に映像化されたものと言えないだろうか。だからこのシーンは自然に見えるのではないか。われわれが自分がそこにはいない場面を想像する習慣があるからこそ現実ではありえない映画のシーンも自然に受け入れられるのではないか。
 
私がいない場面を想像するということは、私に見える主観的な場面としてではなく、客観的な場面・出来事としてそうしているのである。そうせざるをえないのだ。そこに私はいないのだから。先ほど例に挙げた家族の食事シーンは私が見ている風景としてではなく(私はそこにいないのだから)、客観的な出来事として、あたかも想像しているかのようにスクリーンを見ているのである。
 
実際に目で見ることと想像することは別々のことである。実際に自分の目で見ることができないこと、私がそこにいない場面、未来のこと、過去のこと(これは記憶と呼ばれるが)は想像するより他に仕方がない。私が存在しない世界を私は決して見ることができないが、想像することはできる。私がそこにいない場面を想像することは私がそこで何かを見る想像ではありえない。客観的に実在するものごととして視覚的イメージを浮かべるより他はない。
 
私の死の想像は客観的な出来事としての想像であり、それはパラドックスではない。しかし、客観的な私の死とは本当に〈私の死〉なのだろうか。それは他人の死と変わらない一人の人間の死にすぎないのではないだろうか。そして私は私の存在している世界と存在していない世界とではいったいどちらによりリアリティを感じているのだろうか?

(終わり)
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2013、6、17(月)
 
自分の死を想像することはパラドックスか
 
自分の葬式を想像することはパラドックスになるのかどうか考えてみたい。
 
現実の世界では風景が見えているなら必ず私がそこに登場している。風景の中に私の姿が見えるという意味ではない。見えているということ自体に私がそこにいるということを自覚しないわけにはいかないという意味である。「風景が見える、ゆえに我あり」という意味で、眼前に広がる風景の中には私が必ず登場している。私が存在するという自覚なしに風景だけが見えているということはまずない。あるとすればそれは無我の境地という特殊な状態である。実際に何かが見えるならそれは私に見えているということだ。Aさんの視覚、Bさんの視覚、私の視覚というようにカタログのようにそれぞれの視覚風景が並んでいて、その中から私に見える風景を選んでいるのではない。したがって眼前に世界が広がっているのが見えるならばそこには必然的に私が登場している。
 
自分の葬儀の様子を想像してみる。棺に入ったチー吉の遺体の様子を想像するとその視覚的イメージが浮かんでくる。だがそれは誰が見ている場面のイメージなのだろうか。私が想像しているイメージなのだから、私が見ている場面のイメージであるはずである。するとその場でそれを見ている私を想定せざるをえない。そこに私が立ち会っているのでなければその情景はたとえ想像にしても浮かんでくるはずはない。つまり、自分の葬儀を想像するのは、私が自分の葬儀に立ち会っているという想像のことである。したがって私自身の葬儀を想像することはパラドックスになってしまう。
 
自分の葬儀を実際に目で見たならそれは確かにパラドックスである。しかし想像の場合はどうか。自分の葬儀を想像することは、自分のいなくなった後のことを想像するということである。それ以外にも自分がそこにいない場面を想像することはしばしばある。例えば私は自宅に居ながら遠く離れた知人のことを想像する。私はそこにはいないはずだが、その場面は視覚的イメージとして私の脳裏に浮かんでいる。私はさまざまな恐竜が地球上を跋扈(ばっこ)している場面を想像する。そのイメージは仮想的に“見える”。私はそこにはいないはずだ。私はそこにはいないのに“見えている”。これはパラドックスのようにも思える。
 
(つづく)
 
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