超越論的人生論―いかに生くべきかを問う人生論ではなく

人生いかに生きるべきかを問うのではなく、なぜ私の人生が始まっているのかを問う人生論。

人生の長さ、あるいは短さについて

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あらかじめ出来上がった完全な原稿を投稿しているわけではありません。書きながら考え、考えながら書いていますので内容は投稿後変更することがしばしばあります。あらかじめご了承願います。
 
6月26日(水)からのつづき
 
今度は少し観点を変えて過去の出来事の儚(はかな)さについて考えてみよう。常識では過去は現在へとつながっている客観的な現実として受け止められている。過去の出来事も現在の出来事も客観的な現実という点では区別されることはない。しかし過去の世界は現在の世界とまったく異なり、見ることも触れることもできない。現在の現実は眼前に広がっているが過去は思い浮かべるより他にそれを再現する方法はない。写真やビデオは過去そのものではない。それに映って(写って)いるのと同じ光景をかつて見た記憶があるということがそれを過去と認定しているだけである。その意味で過去は夢と同じである。夢もまた思い出すという方法以外にそれを知るすべがない。
 
思い出される過去の出来事はいわば物語を読んでいるようなものである。過去も物語も感覚器官には現れず表象(イメージ)としてのみ現れる。その点で過去の現実と現在の現実とはまったく異なる。今現在の現実はあらゆる感覚が現に働いて現れるいわば“生身の現実”である。この生々しい現実を現在進行形で生きているときには、人生はあっという間の夢のごとき儚きものという感慨は生じない。それは確固たる現実として感じられる。生々しい現実世界が現に目の前に広がっているのだからそれが儚いはずはない。この現実は現在にしか現れない。これが〈今を生きる〉ということの本当の意味ではないだろうか。死の床では過去を回顧するのではなく、最後の最後までこの〈今を生きる〉ということに徹してみてはどうだろうか。その限りでそれは確固たる人生でありつづける。
 
こんな経験をしたことがある。お盆を過ぎたというのに残暑はいよいよ厳しく夕方になっても日中の余熱がかなり残っていた。蝉が近くで鳴いてる。私は何気なく庭の草むしりを始めていた。草取りという作業はなぜか人を夢中にさせる。私はただ無心に草を取っていた。そうして夢中になって草をむしっていると、ふと奇妙な感覚にとらわれた。私はこの「今」という瞬間が永遠であるかのように感じたのだ。瞬間にして永遠の時間。そのとき突如として〈この瞬間だけでもう充分だ。何も思い残すことはない〉という満ち足りた思いに満たされた。それは幸福感というよりもむしろ生の充足感のように感じられた。もしかしたらこれが生きていることそれ自体の喜びなのかもしれないと思った。生きているということがむき出しで現れる感じなのである。
 
何も成し遂げず、社会に何の貢献もしなかった自分の人生は一体何だったのか? 私のような者は人生の秋になってそう自問して自分を苛(さいな)むかもしれない。しかし、功成らず名を遂げずの人生を送ってきた私のような者は幸いだ。人生の意味を繰り返し問い続けるからである。成功をなし遂げた人は人生の意味をその成功に結び付けて考え、人生の意味や意義をそこに見出すことができるだろう。もちろん成功は立派なことだしすばらしいことだ。だが、その成功のためにかえって生きていることそれ自体に意味を見出すことは困難になるだろう。あるいは、秀吉のようにその成功さえ夢のごときものに思えてくるかもしれない。あるいは、自分の成功や業績や地位に満足し、自分が生きていることそれ自体の意味を問うことなく人生を閉じるかもしれない。だが私のごとく鳴かず飛ばずのパッとしない人生を送ってきた者には人生の意味を考える機会が人生の勝者である人よりもより多く与えられているのである。
 
(了)
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6月24日(月)からのつづき
 
考えてみると、「あっという間」と感じる時間の経過は過去のある時点から現在までの時間についてである。今現在の時間があっという間に過ぎていくという感想をもつ人いないだろう。試験中などの特殊な状況ではそう感じることもあるだろうが、よく耳にする月日が経つのは早いという感慨は、現在進行中の時間経過のことではない。「このあいだ年賀状を書いたと思ったらもうお盆か」という言い方がそのことをよく示している。ある過去から現在にいたるまでの客観的な時間経過と比べて、主観的に感じるそれはずっと短く感じられるということだ。
 
それに対して、現在から経過していくの時間の長さについてはどう感じるだろうか。例えばこれから無期懲役の刑に服するとしよう。おそらくその時間は非常に長いと思うのではないだろうか。それをあっという間だろうと感じる人はいないだろう。これから死ぬまでの無期限の時間は永遠とも思えるのではないか。
 
人は誰も死刑囚である(必ず死ななければならないから)と言った人がいたが、死までの時間の感覚の観点から言えば無期懲役囚とも言えるのではないだろうか。「自分もいつか必ず死ぬがまだだいぶ先のことだ」というのが日常を生きる人の感覚である。死刑囚はあらかじめいつ刑が執行されるか知らされていない。ある日の朝突然それが告げられる。だから自分の死はずっと先のことだと呑気に考えることはできない。日常を生きる人は死刑囚ようには死を覚悟していない。ハイデガーはそれを「頽落(たいらく)」と訳される言葉で呼んだが、もし頽落していない人がいるならその人は非日常を生きているのだ。死刑囚、余命3か月と告知された末期がん患者、自殺を企てている人などがそうだ。頽落している人は、つまり普通に生活している人は―年齢にかかわらず―死ぬまでにはまだかなりの時間(猶予)があると思っている。それどころかそれは永遠に続くかのようにさえ思っている。その意味で人は無期懲役囚に似ているのである。しかし、無期懲役がそろそろ終わろうとするとき、つまり病気や老齢で死期を悟りその刑務所生活を振り返るとき永遠と続くかと思ったその期間は「あっという間だった」と感じるのではないだろうか。
 
さて、なぜ過ぎ去った時間は短く感じるのだろうか。それは一週間前、一か月前、一年前の出来事がつい昨日のことのように感じられるからである。したがって過去を振り返るとそこから現在までの時間は短く感じられることになる。反対に過去のある時点の出来事が実際よりもはるか昔のことのように感じられるなら、時間の過ぎるのは遅いということになるが、どういうわけかそう感じる人はいないようだ。月日のたつのが遅いという嘆きを聞くことはない。
 
もう長くはないと悟った死の床ではどうしても今まで経験してきたさまざまな過去が走馬灯のように頭をよぎるものなのかもしれない。だが死に際に過去を回顧し、人生を総括することはやめよう。そうすれば今までの人生が儚いものになってしまうからである。
 
(つづく)
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6月21日(金)からのつづき
 
人生の長さについて考えるとき問題になるのは、客観的時間の長さと主観的に感じる時間の長さとのズレである。例えばもし一日、一週間、一年という客観的な時間の長さを主観的にもきっかりその通りに感じるならばそのようなズレは生じないだろう。このズレがなければ「一日が過ぎるのが速い」というような感想も生れないだろうし、最終的には人生は短いという嘆きも生じないはずである。
 
そもそもわれわれ人間は自己の感覚では時間がどれだけ経過したかを正確に知ることはできない。勘まかせのあてずっぽうだ。事物の周期的な運動や変化を見ることによって(時計はそれを道具化したものである)はじめて時間の経過を正確に知ることができるだけだ。地下の坑道に閉じ込められたことを想像してみればそれがよくわかる。客観的な時間の経過が長くなればなるほどその時間量を実感として感じ取るのは困難になる。一分間程度の時間量ならば実感的にわかるかもしれない。しかし五分になり、三十分になり、一時間になり、一日になり、一週間になり、一か月になり・・・と引き伸ばしていくと、客観的な時間の長さと主観的なそれとのズレはますます大きくなっていくだろう。われわれは時計の針の回転運動数を数え、陽が昇り陽が沈む回数を数えることでどれだけの時間が経過したのかを理解しているにすぎない。時間の長さを感覚として正確に感じ取ることはできない。だから「一年が過ぎるのが速いね」というような感想も生まれる。客観的な時間の長さと主観的に感じるそれがぴったり一致するなら時間のたつのが速いも遅いもない。人生が短いという感慨の起源は「一年があっという間に過ぎる」という実感にあるのではないだろうか。
 
われわれは客観的な時間の長さをその通りに実感できない。だから人生をどれだけ生きたかということは、例えば「私も五十七年間生きてきたのだ」と言語的に、つまり、観念的に理解しているにすぎない。その五十七年間という時間の量をその通りに実感しているわけではない。もし私が西暦(あるいは元号で)何年に産まれたのかということを知らなければ、現在の自分のおよその年齢を自分の顔や体の様子で推測するより他はないだろう。
 
もしもその客観的な五十七年間という時間の長さを主観的にそれよりずっと短く感じたならその五十七年間は「あっという間であった」と感じてしまうだろう。これが「人生は短い」という感慨の正体なのだ。そうだとすれば、どんなに長生きしようと「あっという間」に変わりはないことになる。二十年の人生も七十年の人生も主観的には(その主観的に感じる長さを比べることはできないが)同じことになるのではないだろうか。ところが人は人生の客観的な長さだけを問題にする。
 
将来、遺伝子研究と遺伝子工学などの発展によって途方もない長寿が可能になったとしても当人としては十分に生きたという満足感が得られるかどうかは怪しい。たとえ客観的にどれほど長く生きようとも主観的には「あっという間の人生だった」ということになる。だがどうして主観的に感じる時間は客観的に経過した時間よりも短く感じてしまうのだろうか?
 
(つづく)
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人生の長さ、あるいは短さについて
 
「人生の長さ、あるいは短さについて」などという表題を掲げても、そんなことは単純な問題ではないかと読者の方は思うかもしれない。人生の長さは生きた時間の長さで測るより他に方法がないからである。18年で閉じられた人生よりも九十六歳で往生した人の人生の方が長いことは明々白々である。しかし、それならば、なぜ短命のうちに死を迎える人も長寿をまっとうして死に行く人の人生もみな含めて一律に「人生は短い」と言われるのだろうか?
 
この感慨はそのような客観的な人生の長さとは異なった観点に基づいて述べられているように思われる。つまりそれは主観的に感じられる時間感覚に基づいた感慨ではないだろうか。そうだとしたら一概に十八年の人生は九十六年の人生より短いとは言えなくなる。たとえ百年の人生であっても「あっという間」に感じられたなら当人にとっては短い人生だったということになるだろう。
 
また「人生は短い」という感慨には人生の儚(はかな)さや虚しさということも含まれているのかもしれない。儚さや虚しさも「あっという間の短さ」に起因するだろう。そうだとすればたとえ功成り名を遂げた充実した人生だったとしても人生は儚いという嘆きから逃れられるとは限らない。どれほどの成功を成し遂げようとも、〈露と落ち露ときえにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢〉(秀吉)と嘆かれるのである。人生の最期に自分の人生全体が「あっという間だった」と思われ、夢のごときものに思われるならそれはあまりに悲しいことではないか。人生の虚しさや儚さ、そしてその短さから逃れる方法はないのだろうか。
 
(つづく)
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