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脳裏に深く刻まれた 記憶は、長い時を経たとしても、決して消し去れないものです。 日頃、 引き出しの奥に仕舞い込んでいたとしても、 それは 思わぬ きっかけから、突然と放たれ 生まれるのです。 目をつむると、まぶたの裏側で 遠い昔の色の無い記憶が浮かび上がるのです。 きっかけは、視覚から、聴覚から、、、 五感を通じて 突然ドアをノックし、記憶はゆっくりと開かれていくのです。 冬の重く暗い この空を見上げた時に、その記憶が蘇ってきます。 小学5年生の冬の日の記憶です。 ◇ ◇
当時、わたしの家は 小さながらも工務店を営んでおりました。 何人かの大工を雇い、木造住宅などの工事を請け負っていました。 地元の大きな建設会社の下請けの仕事が多かったようです。 経済は急速に成長を遂げ、人々も 貧しさから脱しようと、 皆 身を削って懸命に働いてた時代でした。 そして、一定の所得を得たものは、生活に豊かさを求め、 モノを所有する欲求が 高まった時代でもありました。 消費財は勿論、テレビ・冷蔵庫などの電化製品や自動車など。 その極めつけが住宅だったのでは、ないでしょうか。 持ち家率は今よりも低かったはずです。、 他人の家の間借りをすることも多かったと聞いています。 家を、マイホームを持つという欲求は強かったことでしょう。 そのせいなのか、父親の工務店の経営は、順調だったようです。 みすぼらしかった −− 最初は、看板などなく 掘っ立て小屋のようでした−− 事務所は、新しく建てかわり、会社らしい佇まいになりました。 商売を始めたタイミングも、よかったのかもしれません。 おかげで わたしの家は、すこし裕福でした。 地主のように 大きな敷地に、立派な建物を構えているわけではありませんでしたが、 少なくとも自分の周りと比べると、裕福だと感じてました。 小学3年生の時に、自宅は新しく建て替えられ、 電化製品や家具などは新しく買い揃えられました。 友人の家には無くて、自分の家にはある、そんな電化製品がありました。 自家用車は2台 所有しており、そのうちの1台は母親が使ってました。 母親は、毎日のようにその軽自動車を運転して出かけてました。 学校のPTA活動にも積極的に参加し、そこで出会った知り合いが多くいました。 そして、その知り合いの殆どは、お金持ちの家庭だったようです。 会社経営者や自営業、医者といった。 ◇ ◇
シンちゃんと知り合ったのも、その母親同士のつながりからでした。 同じ小学校に通いながらも、クラスは別でしたので、それまで知らなかったのです。 シンちゃんのおかあさんは交流は、共通の友人を通して始まりました。 気があったようで、互いの家を行き来する回数は、次第に増え、 日曜日にも顔を合わすようになりました。 その何回かに 一度は わたしも 母親について行きました。 でもそれは、自ら進んでた わけではありませんでした。 小学校低学年の頃となれば、勿論近所によく遊んぶ友達がいましたが、 わたしには、その数が多くありませんでした。 二三人しかいない近所の友達の家へ遊びに行っても、 その時に友達が家に居なければ、一日中暇を持て余すことになります。 小学生の休日は、基本的に暇で退屈なものなのです。 今の時代は、そうでないかもしれませんけど。 母親の車に乗って、取り敢えず 出かければ、 少なくとも退屈という苦痛からは開放されました。 ◇ ◇
シンちゃんは、とても真面目で、頭の良い子供でした。 小柄でしたが、その表情は、いつも自信に満ち溢れてました。 外交的で、話す口調もはっきり。 一重で切れ長の目、キリリはっきりとした濃い眉毛、 薄いくちびる、先の尖った顎。 内面が、気の強さが表情にでているような、そんな顔立ちをしてました。 それに比べて、わたしは、内向的で人見知り。 おまけに勉強はできませんでしたから、 自分と比べて シンちゃんは、とても強い存在に見えました。 シンちゃんに勝っているのは、体の大きさだけかなと、感じていました。 そんなシンちゃんと一緒の時間を過ごすと言ったら、 持っているおもちゃを見せてもらい、そこに置いてあるゲームで僅かな時間遊ぶ程度。 たまに外でキャッチボールもしましたが、 シンちゃんは野球がさほど得意でないようで、それも長くは続きませんでした。 そんな母親を通して始まったシンちゃんとの付き合いでしたが、 シンちゃんはわたしにとって、正直苦手なタイプでした。 同じ趣味をもっていたわけでもなく、会話は長く続くことがありませんでした。 シンちゃんは、はっきりと自分の考えを言葉で示し、 わたしは それに逆らいませんでした。 それでもシンちゃんの家へは、母親につれられ遊びにいきました。 シンちゃんの家は、車で15分程度で、街の中心から少し離れた新興住宅街にありました。 当時、わたしの住む家の近くには、俗に言うニュータウンは存在しませんでした。 新興住宅地は、区画が整理されていて、わたしには異質に感じました。 道路はまっすぐで、交差点は直角で、その道幅はいずれも細かったと記憶してます。 もとは丘陵地を造成した場所で、遠くから見ると なだらかな斜面に、 家が密集して立ち並んでいる様子が よくわかりました。 そこに住む人たちは、自分たちよりも 都会の人りなのだろうと、 根拠の無い想像をしたりもしました。 最初の頃はしりませんでしたが、シンちゃんのお父さんは、銀行で働いてました。 銀行員と聞いて、そこに働く人は、お金があって、真面目で怖い、そんな印象を持ちました。 シンちゃんが、真面目なのも、お父さんの影響なのだろうと、想像しました。 そんな、シンちゃんとの付き合いは、一年以上続きました。 気が合わず、趣味も合わず、会話もつづかず、、、 わたしは、偽の友人を演じていたのです。 そんな付き合いは、長続きしないものです。 あと二週間くらいで、冬休みがはじまろうとしてた頃でした。 毎日のように薄暗い雲に覆われたこの地の冬の季節。 夕方4時を過ぎると、空の明かるさはとうに消えていて薄暗く、 家に帰ると既に明かりが灯けられてるます。 いつもの様に居間ののコタツに入り、テレビを眺めてると、 となりの台所で電話する母親の声が聴こえてきました。 ひそひそと 小さな声でした。 時折、驚いたような、悲しそうな声も聞こえました。 離れていたので、その会話の内容は定かではありませんでしてけど、 どうやらシンちゃんの家の事のようでした。 電話の相手は シンちゃんのおかあさんだったのでしょうか。 電話を終えると、母は悲痛な表情で言いました。 「シンちゃんとは、もう逢えないかもしれない」 どうしてなのかと聞くと母は少し考えて、 「もう別のところに引っ越ししてしまった」 その言葉に「どうしてと」また繰り返すと、 シンちゃんのお父さんが悪いことしてしまい、 そのせいで、シンちゃんとお母さんは家を出ていかなければ ならなくなったのだと、早口でわたしに伝えました。 ◇ ◇
その翌日の新聞の三面記事に、シンちゃんのお父さんのことが載ってました。 母親に知らされてその記事を目にしたのか、 四コマ マンガを見ようとして たまたま目にしてしまったのか忘れたけれど。 黒い網掛けに白文字の見出し、そして大きなモノクロの写真。 はじめて見るシンちゃんのお父さん。 暗い色のコートに身を包み、襟を立て、 警察の人らしいひとに連行され、歩いている姿。 険しい表情、横に向けられた視線。 記事を眺めました。 読めない漢字、理解できない言葉は多いも、 シンちゃんのお父さんが、銀行のお金を勝手に使ってしまったこと理解しました。 そして、“逮捕”されたんだと。 暫くの間、逮捕という言葉が漠然と頭に浮かんでました。 母親に言われたとおり、もうシンちゃんと会うことはありませんでした。 特別仲が良かったわけでありませんから、 当時シンちゃんと会えなくなったことで苦痛は感じませんでした。 それより、身近にいた友人のお父さんが警察に連れて行かれたことのほうに、 ショックを受けていました。 ◇ ◇ その後、時間が経過するごとに、徐々にシンちゃん自身のことが気にかかるようになりました。 それは、自分の子供たちが あの時の自分の年齢に追いついて、 追い越してった 今に思うととても切ない気持ちになったりもします。 シンちゃんは、今も間違いなくどこかで暮らしていたのだろうけど、 どれだけの苦労を重ねたのだろうかと。 そして、今は幸せにくらしてるのかとも。 <了> 毎日流れるニュースの中で、横領や、贈収賄に不正取引といった話題を 今も昔もよく耳にする。 バレないとでも思ってるのだろうかと思うど同時に、 どうして そんな事態になるまで、周りは気づかなかったのかという、疑問が生まれる。 また、人間という生き物は欲深く、特にお金が絡むと、 自己中心的で利己的な判断をする、なんと愚かなのかとも。 そのたんびに、リーガルマインドは 無理だけど、正しい判断をしたいと感じるわけです。 ヤンキースと契約した田中投手の7年の年俸総額は日本円でおよそ161億5000万円。 1年では・・・計算したくなくない(笑) 資本主義、自由主義であるから、この金額を払うと言うものが居て、受け取るものが居て、 ルール上問題ないわけだが、なんとも釈然としない気持ちになるのはわたしだけでないはず。 これは正しいのだろうか、マイケル サンデル教授。 |
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カラカラと乾いた音の引き戸を開けて、そこから ずっと奥のほう。 客席フローアの向こう側に 厨房との隔たりをつくる 席のないカウンター。 その手前に 置かれたパイプ椅子。 そのパイプ椅子が 彼女の定位置。 ---「彼女」などという軽々しい表現は、その女性に対して失礼で、 かつ似つかわしくないのかもしれないけれど。--- もう70歳は過ぎているのだろう 小柄な女性は、 すわり心地の悪そうなパイプ椅子に、 慰めのような座布団を引いて、“ちょこん”と座ってる。 厨房に背をむけ、客席フローアの方を向いて 座るその姿は、 周りに溶け込んでいて、まるで擬態してるかのよう。 無駄口は勿論、訪れたお客とありきたりで、退屈な会話などすることもなく、 体を揺らすこともなく、じっと 前を向いている。 表情さえも変えず、もしかして瞬きすらしないのでないかさえ覚えてしまう。 その視線の先は、壁にかけられたテレビジョンなのか、 それとも その先、壁の向こう側を見ているのか。 昨年の11月に偶然伺った新発田市の食堂へ“again”、半年振りの訪問でした。 いつ伺おうか、気にかけていましたが、なかなか実現できませんでした。 半年の間に、この街には 何度か足を運んでいて、 再訪するチャンスも あったのですけど、思った以上に時間を要しました。 (でもその分、この街の道を大分覚えることができましたし、 ここへも こうしてすんなりと伺うことが出来ました。) 表通りから小路に折れて直ぐのとこ、小さな神社のとなり。 赤い鳥居とノボリが目印。 半年前は、、そう ひとりで この街をはじめて歩いた、晩秋の休日でした。 その記憶は 澄んだ青い空の色とともに、 時間が経過した今も 鮮やかな色合いとともに蘇ってきます。 このお店に伺ったこと、、そして店の女性のこと。 いずれも 忘れ得ぬ想い出です。 前回、居合わせた他のお客さんが「えび玉丼」がおいしいと 聞いてました。 次伺った際には是非それと決めていましたので、 迷うことなく その女性に 伝えました。 「エビフライの卵とじかつ丼みたいなものだな、きっと」 えび玉丼をそう勝手に想像していたのですけれど、 目の前に運ばれてきたそれは、エビフライではなく、 小エビのむき身を 卵とじで煮合わせたものでした。 そして大分、汁だくでした。 まるで、地面を少し掘っただけなのに、水が浮いてくる沼地のようでした。 (食べ物なのに こんな表現、、まったくもって自身の乏しさに 少なく悲しいのですけど) 正直言いますと、丼物の汁だくは 苦手なのですが、今回は とてもおいしくいただきました。 前回訪問時、感動的に おいしかった“水餃子”は、 お腹と懐と相談した結果、残念でしたけれど、頼みませんでした。 それはまた、次伺う時の楽しみとして とっておくことにします。 「えび玉丼」をいただいてる間、 その女性はわたしに対し、横向きに座ってました。 他のお客さんが少なかったせいもあって、 椅子を離れることも ほとんどありませんでした。 必然的に 彼女は常に わたしの視界にはいってました。 肩をすぼめて 座る姿は とても愛らしくもあり、、 でも、その表情は どことなく 淋しげで、憂いさえも 感じました。 余計なお世話なのでしょうけど、 「これまで どんな人生だったのだろうか」 「今は何をして過ごしてる時が 一番楽しいのだろうか」 そんな言葉が、ふと頭に浮かんでは、消えてきました。 映画の字幕のように、漆黒のスクリーンに浮かぶ白い文字。 それが 何度か繰り返されました。 まんま自分自身へ 問いかけのようでした。 <了> |
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しばらくの間、ここに言葉を記せなかったのは、 年度末の慌ただしさや、限りある時間のせいではなくて、 わたしの心の中に潜む 幾つかの憂いのせいだったのかもしれない。 低く垂れ込めた厚い雲の下で 過ぎていった 数週間。 あるいは、暗く人気のない夜道をひとり歩くような 心細さに、 知らずと 不安や怯えを感じていたのかも。 時間の経過とともに、闇に目は慣れ、雲は遠くへと動き、 少しくらい 気持は前を向けるようになってきたかな〜。 現に、ここで こうやっていられるわけですし。 もうひと頑張りです。 世の中が とやかく変わっていくこの時機。 置かれている環境が変化して、思いは揺れ動く方々も多いはず。 時に怒り、それを拒み、不安を感じ、悲しんだり。 そんなプロセスは、人間であれば ある種当然のことであって、 その過程を経なければ、受け入れることなどできないでしょう。 でも “変化”することは、悪いことばかりでは決して無く、 むしろ 新しい何かが待っているはず。 そう、過ぎ去った 夜の嵐のあとには、まばゆいばかりの金色の空が広がるさ〜 あれれ、このフレーズは どこかで聞いたような、、、 『You'll never walk alone』
吹き荒れる嵐の中でも 胸を張って、前を向いて歩こう 暗闇を おそれることなどない 嵐の向こう側には 美しい金色の空が広がり 小鳥たちの甘く澄んだ歌声が聞こえてくる 歩こう 風の中を 歩こう 雨の中を たとえ君の夢が破れたとしても 歩こう ただ歩こう 輝く希望を胸に そうさ 君は決してひとりじゃない 君は ひとりじゃないのさ ------ 日本語訳 アヒル (爆) ------ 「男性的な 大きな曲」だって、いつか聞いた ラジオの向こう側で DJの小林克也さんが 言っていた。 たしかに かっこ良くて、男らしく、勇気の出る曲ですね。 昨日、中学校の入学式を終えた お兄ちゃんにも、この歌を届けたいな。 お兄ちゃんわかるかな? まだ わかんね〜かな(笑) <了> |
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小高い 丘の上に わたしの通う 小学校はありました。 街の 中心である 駅の裏側に 位置していました。 見晴らし良く、校門の前に立つと、眼下にグランドが広がり、 向こう側には 背を向ける駅と 目抜き通りを一望できる場所でした。 グランドの 周りには 桜の木が 数多く植えられていて、4月中旬にもなると 淡い美しい花の下、クラス単位で 集合写真を撮るのが 恒例でした。、 好天の日を選んで 撮影する ためか、 写真に 映る 生徒たちの 顔は みな眩しげです。 日曜日には 花見客も多く集まり、普段は静かなその場所は、 ひとときの 賑わいをみせました 。 グランドの 直ぐ脇にあった 駅、 ホームからは花も手に届きそうなくらいの 距離でしたから、、 風に吹かれた 花びらも 舞い降りたことでしょう。 駅前には 小さながらも 商店街が並び、地元経営のスーパー、信用金庫にタクシー会社、 小さな本屋、パン屋さんなどが 軒を連ね、 人口 少ない町でしたけど、まだその時代には 郊外の大型スーパーマーケットもなく、 駅を中心に広がる その商店街に 近隣の人々は集っていました。 学校のある 丘には 北側からと南側側から、勾配のきつい 坂道がのぼり、 一番高い場所で交わり校門がありました。 学校を境に 北側から通う生徒と 南側から通う生徒は 毎朝 この坂道をのぼり、校門の前で顔をあわせ、 帰宅時は そこで手を降り背を向けて その坂道を下って 皆家路につきました。 ◇ ◇ 小学三年生の時、直人くんという クラスメートがいました。 直人くんは 知的障害を持ってました。 今では 不適切な表現なのでしょうが、"知恵遅れの子" とまわりの大人も 生徒も 直人くんのことを そう呼んでました。 また 当時の小学校は、障害を持った子どもとそうでない子どもが 同じ環境で授業を受けてました。 そのことについて、なんの疑問を抱くこともなく、 先生も生徒も ごく自然に 直人くんに接していたように 記憶してます。 でもそれは まだ小学校三年生という、 世の中のことを何も知らない、"子ども" だったせいかもしれません。 直人くんは とても立派な体格をしてました。 身長は クラスで高い方から 一番か二番目、 体重は間違なくダントツ、いい表現ではありませんけど、"デブ"でした。 付けられたあだ名は "デブトン"でした。"" 髪はいつもオカッパで、眉毛の上 3センチほどで まっすぐと綺麗に前髪が 切り揃えられていました。 そんな直人くんは クラスメートから 不思議と 好かれていました。、 直人くんは 自分から率先して 話かけることは 無いのですが、 こちらから 話しかけるといつも 返事の代わりに ニコニコとした表情で、 「ウン」とか「いい」とか「いやだ」って、 言っていたよう 覚えてます。 肉付きの良い体つきでしたので、まわりの男子生徒に 意味なく おなかや 胸をさわられておりました。 小学三年生のころだと まだ母親の乳房が恋しいのか、 直人くんの柔らかな からだに、母性を求めてたのかもしれません。 ◇ ◇ わたしも そんな直人くんのことを 気に入ってました。 背丈も 同じくらいでしたので、教室の机も たまに並んでたり、 整列をした際にも わたしのひとつ前と、常に身近な存在だったからでしょうか。 でも、もしかして本当は、勉強の出来ない自分を はぐらかすため、 直人くんの姿を見ては 少しホッとするような、 周りの勉強には ついていけない彼を見ては 自身安心する気持ちを求めたのかも 知れません。 授業中、先生は 彼の事を気に止める様子も無く、 普通に 授業は進められました。 それが いつもの光景でした。 書く文字は大きく、バランスも悪く、 宿題やテストのプリントの氏名欄に書く自分の名前は そのマスから いつも 大きく はみ出していました。 直人くんのノートは、ほとんど何も書かれてなくて、 まれに書きこまれた文字は 解読不能でした。 体育の時間でも 太っていたせいで 走るのが遅く、かけっこは いつもビリでした。 鉄棒の逆上がりも 当然のようにできず、放課後一緒に練習しました。 足で蹴ったあと、直人くんのカラダを支えて、鉄棒の上にあげようとしましたが、 彼の体重は到底 子ども力では 持ちあげられず、 結局 最後まで できずじまいだったと記憶してます。 わたしも 授業中に逆上がりができなくて、周囲に笑われ、恥ずかしい思いをし、 練習して 不恰好ながらも 最後はなんとか できましたけども。 今思えば、直人くんも きっと 恥ずかしい思いだったのでしょう。 直人くんは 特徴のある絵を描いてました。 構図はダイナミック、鮮やかな色合を使い、ひと目で 直人くんの絵だとわかりました。 でも、人やモノの 形を表現するのは 苦手で、 描いた人の絵は 象形文字のようでした。 直人君と 毎日の長い時間を共にしても なかなか 会話は 成り立ちませんでしたけど、気が合いました。 彼が わたしのことを どう思っているのか 別として。 ◇ ◇ 直人くんの家に 一度だけ遊びにいったことが ありました。 休み時間 直人くんに 「今日あそびにいくから」と 伝えると、 直人くんはニコッと笑ってくれたので、 それは「いいよ」という返事なんだって 思いました。 直人くんの家は 学校から南側にある 県職員専用のアパートで、みな県職アパートといってました。 学校を終えて、急いで家に戻り、母親に友達の家にあそびに行ってくると告げて 自転車にのり 直人くんの家に向かいました。 母親も 直人くんのことは 知っていましたが、彼の名前は告げませんでした。 自転車で自宅から 直人くん家に向かうに、 学校の坂をきらい、駅前と商店街の間の平坦な道を通りました。 季節は春から夏にかけた、天気の良い日で、 自転車で立ちこぎをして、勢い良く駅の前を通り過ぎました。 県職アパートは鉄筋コンクリートの四階建ての建物でした。 ブロック塀のような 濃いねずみ色をした建物、当時高い建物は何もないその町では ずいぶん遠くからも アパートを見つけることができました。 アパートは3棟並び建ち、そのひとつの3階でした。 外階段を駆け上がり、その途中 コンクリートの匂いが 気になりました。 3階までたどり着き、直人くんの苗字と同じ表札を探し、難なく見つけました。 無機質な鉄の扉の前に立ち、 ためらいましたけど、呼び鈴を押しました。 しばらくすると、鉄の扉が開き、お母さんが迎えてくれました。 「直人くんいますか」と こわごわ声をだすと、 おかあさんは にっこりと笑ってくれて、「よく来てくれたね」と わたしに言ってくれました。 そして、「なおと〜」と部屋の奥に向かって 直人くんを呼びました。 暗い 廊下の奥のほうから 直人くんは ゆっくりとその大きなカラダが現れました。 彼は 教室と同じように ニコッっと笑い、、、でも 少し恥ずかしそうな 表情も見受けられました。 「中にはいって」と お母さんに言われて、靴を脱ぎ、直人くんの部屋に通されました。 6畳くらいの広さ、畳敷きで、障子の窓が一つ、昼間でも明るくなくて、天井から吊り下げられた 蛍光灯を 底から垂れ下がっている 紐を引き、明かりをつけました。 部屋には勉強机が二つありました。 ひとつは直人くんの、そしてもうひとつは 直人くんの弟の勉強机でした。 その日、弟は家にいませんでしたけど、弟の存在は以前から知っていました。 どのくらいの時間その部屋にいたのかは忘れてしまいましたけど、 なにか おもちゃを見せてもらって、それで少しだけ遊び、すぐにそこを出たんだと思います。 そのあと アパートの周りの 広場で少しだけ 一緒に遊びましたが、 それにも飽きて しばらくして 家に帰ることにしました。 帰り道、まだ家に帰るにしては 早すぎたので、 学校のグランドを通り、だれか他に友達が いないか 探しました。 やはり、直人くんと遊んでも つまらなかったのかもしれません。 結局そこには 誰もいなくて、家に帰りました。 ◇ ◇ その晩、母親に 「直人くんは どうして あんなになったの」そんなことを聞きました。 なんでも 小さい頃に高熱の影響で 頭がおかしくなったんだって、そんなふうに説明を受けました。 直人くんのこと以上に、にっこりと 笑ってわたしを迎えてくれた 直人くんのおかあさんのことが 可哀想に感じました。 その後、直人くんのアパートには もう行くこともなく、 学校ではサッカーや野球に興じるになって、次第に直人くんのことを意識することもなくなりました。 そして、四年生になると 直人くんはいなくなりました。 たぶん、養護学校に転向していったのだと思います。 あれから 何十年もたった今でも、多くの時間を共にした友人のことでなく、 直人くんのことを思い出します。 一昨年の春、4月初めの日曜日に、 当時小学4年と2年生の 二人の子どもを連れ 小学校を訪れてきました。 木造だった校舎は、鉄筋コンクリートに変わり、随分と印象が異なりました。 「ここがパパが通っていた小学校だよ」と、子どもたちに 伝えましたが、 ふたりは「ふ〜ん」と言っただけで、グランドにある遊具の方に走り出しました。 グランドの周りには、あの頃と同じ桜の並木。 まだ蕾ばかりが 目立ちましたが、 よく見ると 枝先のところどころには 蕾開き 遠慮気味に淡い花を開いていました。 夢中に遊具に興じる 子どものことを しばし ほったらかしにし、 北側から上がる坂の道をゆっくりと 歩き、校門の前に立ちました。 坂の途中、反対の南側の坂の方から、誰か駆け上がってくるような錯覚に陥りましたが、 休日の小学校を訪れる ものなどいるはず無く、 ひとり 校門から配下に広がる グランド、駅、その先に広がる街並を見渡しました。 駅も街の様子も あの頃と随分変わっていました。 グランドの端っこに 小さく映る 子ども達の姿に、あの頃の自分が重なりました。 あれから随分と長い時間が 過ぎていったけれど、直人くんは元気でいるだろうか。 <了> |
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ほんの些細な出来事から ものごとの本質を学ぶことがあります。 むしろ、その核心を理解するには、文字や耳で理解するのではなく、 身を持って知ることこそ、それを知る唯一の手段なのかもしれません。 先日直面した 小さな出来事は、 わたしの頭の中で 理解していたかのように思えてた 認識が いかに浅はかで 罪深きものかを 知らしめてくれました。 ◇ ◇ 休日の夕方、奥さんと小学生の子どもふたり、 そしてこの日は遊びに来てた高校二年生の甥っ子も連れ立って ショッピングセンターに出かけた時のことでした。 子どもたち二人を甥っ子に任せ、わたし達 夫婦は買い物のため別行動を取ることにしました。 子供らは センター内にあるゲームセンターで遊んでいるというので、 ひとり 200円づつ手渡しました。 ゲームセンターといっても、主に小学生から幼稚園児向けのもので、 売り場にも面しており、こども達だけでも問題ない遊び場でした。 念のため、高校生の甥っ子には、監視役をお願いし、 子供らにも 必ず一緒に遊んでるようにと 告げました。 わたしたち達 夫婦は、同じフロアで 衣料品を見て回りました。 しかし欲しいものに見合った商品は あいにく見つからず、 おおよそ20分ほどで、 子どもたちのいるゲームセンターに戻ることにしました。 小さなゲームセンターですので、直ぐに こども達と甥っ子の姿を確認できました。 三人肩を並べて、コインゲーム機の前に座ってました。 近づいて様子を伺うと、 もう残り少ないコイン、甥っ子と長男はゲームに興じておりましたが、 次男坊だけは 下を向いて寂しそうでした。 その様子を不思議に思い、奥さんが声をかけました。 次男はその問いかけに、顔をこちらに ゆっくりと向けました。 彼は 今にも泣き出しそうな表情で こう訴えかけました。 「手に握っていた100円玉がなくなった。」 「コインゲームのコインを入れるところに間違って入れたのかもしれない。」 次男の目は今にも涙が溢れそうでした。 お金をなくしたことを悔やんでいるのか、 なくしたことで 遊べなかったことが 悔しかったのか、 きっと後者の ほうであろうと 容易に想像できました。 高校生の甥っ子からは、きっと落としたんだろう って聞きました。 いずれにしろ、わたしはそんな次男のことが とてもかわいそうに思えました。 自分以外の二人だけ遊んで、次男だけは できなかった、そのことが 不憫に思えたのです。 どうな慰めようかと、そして いつ財布から 100円玉を取り出そうかとも 考えてました。 しかし、奥さんはいきなり次男をしかりました。 なんにせよ、お金をなくしたことに対して、しかりました。 そのことは わたしにとって 予想外のことでした。 その瞬間、しかられた次男坊は こらえていた涙が溢れだし、声を上げ泣き出しました。 いろんな言い訳の言葉をならべてましたが、 奥さんは それを耳に入れるまでもなく、何度もしかりました。 聞いてたわたしは、「そこまで怒らなくても、たかだが 200円だし」 と 思いつつも言葉には しませんでした。 長男と甥っ子の 残っていたコインもゲーム機に飲まれて、皆で駐車場に向かいました。 わたしは 泣き止んだものの、まだ悲しげな次男の肩をだき、 「あとで200円あげるから」って、耳元でささやいてました。 そうすることが わたしにとっての "やさしさ"でした。 ◇ ◇ 車内では あいかわらず、次男は下を向き、黙っていました。 いつもの饒舌でおどけた様子は 影を潜めてました。 奥さんは、また 次男に話しかけました。 しかし、もう先程のように 強い口調でしかるのでなく、 諭すように柔らかい口調に変わっていました。 「何かに夢中なっても大事なものは ちゃんとしまっておくんだよ」って。 「お金はとても大事なものなんだよ」って。 次男は下を向いたまま、頷いてました。 一連の次男と奥さんの やり取りを目の当たりにして、 わたしも「お金は大事大事」って、頷きながら聞いてました。 そしてそれは ふと別のことを 気付かされた瞬間でした。 わたしの "やさしさ"は、その場を取り繕うための 表面的なやさしさ。 もちろん やさしさとは、寛容であること、怒らないこと、許してあげること、 そういった部類だけではないこだということを 理解していたつもりでしたが、、、、、 自身の子どもらには、愚かにも 表面的なやさしさだけに 終始してました。 そしてそのくせ、とても些細なことで怒ってみたり。 意味を履き違えたこと 恥じながら ハンドルをにぎり 、 フロントガラスの向こう側を 逃げるように見つめながら、 そして、そんなこと これからの わたしに できるかなとも。 <了> |




