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検証 坂本徳一氏著 馬場美濃守信春

馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)
【検証】
 この信春は大きな誤りである。家系図および各地に残された書によれば信房(のぶふさ)が正しい。白州町自元寺の法号も美濃守が移送した白須若宮八幡社の伝書も信房になっている。信春は「甲陽軍鑑」記載から始まると思われる。
 武田譜代の板垣(信方)、内藤修理、高坂弾正と並んで武田の四名臣に数えられた知将である。
 特に信虎・信玄・勝頼の武田三代に仕えて忠誠を尽くしている点では武田二十四将中でも最古参の重鎮である。しかも、かすり傷一つ受けず乱世をくぐり抜けている。(【甲陽軍鑑】)
 ″不死身の馬場美濃〃といわれ、「一国の太守の器量人」と高く評価された背景には、人間的な魅力と統率力、さらに慎重な構えを崩さなかった思慮深い人柄がしのばれる。
 馬混信春の出生は永正十一年(1514)と推定される。生地は教来石(きょうらいし・けふらいし)、いまの山梨県北巨摩郡白州町である。甲信国境の国界橋南東のなだらかな丘陵地帯を領土とし、国境警備を兼ねた騎馬衆がそれぞれ配属されている。【?】信春の家は代々、武田に仕えてきた甲斐源氏の末流二十七代目と自称している。【?】教来石一党は武田の先鋒隊、武河衆の一方の旗がしら、騎馬戦法にかけては天下無双を誇る騎馬軍団の家柄である。【?】日常は百姓をしている。いざ出陣となると急いで武装を整え、飼い慣らした駿馬に跨って「孫子の旗」の下にわれ先に駆け出してゆく。【?】
【註】
 ?の内容は筆者によるもので、歴史書や甲陽軍鑑・甲斐国志にも記載されていない。
(『甲州の名将 馬場美濃守信房とその子孫』長篠戦史資料その2 丸山彰氏著)

 馬場美濃守信房は信虎・信玄・勝頼の三代に仕え、武田氏興隆のために精魂を傾けた。
 「甲陽軍艦品第十七巻第八 武田法性院信玄公御代惣人数の部、御親類衆」の次の、「御譜代家老衆の部」に十七人の名があり、その筆頭に、馬場美濃守、旗白地黒山道、百甘騎とあり、内藤修理正・山県三郎兵衛・高坂弾正が書かれている通り、武田家の重臣中の重臣であった。               
 戦闘に参加すること二十幾度、そのうち抜群の功績を称えられたもの九度に及び、それでいて身に一刻も受けなかったという。敵も味方も敬仰する勇将であり、智将であり、而もその身辺には、どこか人間的な暖かさが漂っている名将であった。

 信春の幼名は不明だが、馬場の姓を名乗る前は教米石民部景政。幼少のころの甲斐の国は、ようやく血族同士の内乱が治まり、武田信虎が石和の屋形を引き払い、府中(甲府)の要害山のふもとに躑躅ヶ崎の新館を築き、裏山の石水寺に山城を築いた年である。
 享禄四年(1531)四月、十七歳で出陣した景政は、塩川の河原辺(韮崎市韮崎町)まで攻め寄せてきた信濃・諏訪領の諏前頼満の大軍と戦い、勝利に導いた殊勲者の一人だった。それ以来、五十騎隊の隊長に昇格して、信虎の親衛隊【?】として駿河出兵、信州・佐久攻略、北信攻撃などの作戦に参加している。出陣のたびに教来石民部景改の軍功が高まり、敵軍にも罷れられる若武者に成長した。
 景政を大器に育てた指導者は、小身の出でありながら文武の道に秀でた小幡山城守虎盛。のちに出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け【?】、実戦に必要な武器の操典を仕込んだという。【?】
 天文十年(1541)六月、信虎が駿河へ追放されたさい、晴信擁立派の板垣信方の下で働き【?】、晴信が甲斐守護職の座にすわると同時に武川衆の一隊長【信房は武川衆ではない】としてその幕下に加わった。
 翌年六月中旬から始まった信州の諏訪、伊那攻略に真っ先に立って諏訪軍及び高遠軍と戦った。一年後、馬場の姓を拝命し、馬場民部景故と改姓した。馬場家は武田譜代の重臣だった。馬場伊豆守虎貞【下部町常葉在】は信虎の怒りに触れて切腹、跡目が絶えていたが、晴信の配慮で景政に家名を継がせた。同時に七十騎分の加増があり百二十騎の侍大将に昇格した。
 馬場美濃守信春【?】と改姓したのは永禄二年(1559)以降である。百二十騎の部下の中には虎盛の子、小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、早河弥三右衛門、鳴牧伊勢守、平林藤右衛門、塙大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた【甲陽軍鑑】。翌年十月、信春は牧島城の城代を務めている。牧島城にひるがえる旗の紋章は、白地に黒い山道に、黒い紋章【これは戦場のもの】。これも虎盛が考案【?】してつくらせたという話がある。
 その虎盛も第四回の川中島の決戦直前に七十一歳で世を去るが、馬場信春の伝記や逸話は川中島合戦以降に多い。
 永禄四年(1561)九月十日の川中島合戦の前日、信玄は馬場信春と飯官兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いている。モの時、飯富兵部は「妻女山の山城に寵もる【籠る】越軍は一万三千、わが方は二万。このまま城を攻撃し、または包囲すれば必ず勝てると確信します」と進言した。
「数の上からみれば確かに勝てる戦いだが、なるべく味方の犠牲を少なくするために慎重な作戦をたてるべきです」と慎重論を提言したのは馬場信春である。【甲陽軍鑑】
 そこで信玄は山本勘介を招き、勘介と信春から改めて意見を聞いた。
 「味方は二万の軍、これを二手に分け、一万二千の兵を妻女山へ送り、明朝、妻女山を攻撃すれば、越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退するはず。そこで本隊は八幡原で待ち伏せ、予備隊合わせて八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いなしと存じ上げます」
 勘介の「キツツキ戦法」【?×これは信房の戦法 甲陽軍鑑に記載がある】である。信玄は大きくうなずいて、その戦法を採用した。決戦前日の九月九日だった。
 信玄は妻女山の攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ、このほか小山田昌辰、甘利富忠、小幡尾張守、戸田下野ら馬術にすぐれた十人の部将と騎馬軍団一万二千。一方、先方衆の真田幸隆、柏木市兵衛、芦田八幡原に布陣する旗本隊には信玄、信繁・信廉兄弟と山県昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。
 馬場信春ら妻女山攻撃隊は深夜に出発、翌十日未明、妻女山のふもとに到着、朝霧にまぎれて妻女山ヘー気に攻め込む手筈だった。しかし、甲軍の裏をかいた謙信は武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全軍城を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣と遭遇し、大激闘となった。
 一方、妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急減、八幡原へ向かった。
 卯の刻(午前六時)から始まった甲・越両軍の戦いは一万三千の越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫った。やがて妻女山攻撃隊が駆けつけて死地を挽回した。甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い、大きな犠牲をこうむったが、午後四時ごろ、康信の退去命令で越軍は去り、信玄を囲んで武田全軍は、勝ちどきの儀式をした。そのとき太刀持ちをしたのが馬場信春であったと『甲越川中島戦史』などで伝えている。このとき馬場美濃守信春は四十七歳。既に初老に達していた。
 信玄の駿河進攻作戦は、永禄十一年(一五六八)十二月にはじまり、十三日に今川氏真の居城・駿府城(静岡市・現、県庁)に乱入した。信玄には城攻めに際し、もう一つの目的があった。氏真の父義元は『伊勢物語』の原本を入手したように書面・骨董・美術工芸品の蒐集家で知られている。義元存命中、『伊勢物語』の原本を拝借したことのある信玄も、その道にかけては造詣が深かった。だが親元のように幇を尽くして蒐集するまでには到らなかった。だから親元が蒐集した書画・骨董や美術工芸品を戦火で失うより大いなる文化遺産をそっくり甲州へ持ち帰り、手の届く所に保存したいという下心があったらしい。【甲陽軍鑑】
 そこで乱入に当たり、「書面・骨董・美術品は、何にもまして宝物だ。決して燃やさずにひと品たりとも奪い取れ」と全軍に命令した。
城内侵入の先達を受け持った馬場美濃守は全くの無粋者。書画・骨董・工芸品の価値観をわきまえていなかったらしい。【??】
 「たとえお屋形の命令とは申せ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か、貪欲な田舎武士のやることだ。後世、物笑いのたねになる。構わぬ燃やしてしまえ」
 と、曲輪内に大挙して踏み込み、片っ端から火をつけて燃やしてしまった。城外に陣を敷き、炎上する城を見つめていた信玄のもとに伝令がかけつけてきた。馬場隊が宝物を乎当たり次第燃やしている、という報告だった。それを聞いて信玄は苦笑した。
 「さすが七歳年上の軍将じゃ。一理ある。甲斐の国守が奪ったとあれば末代まで傷がつくからなあ」と、つぶやいたという。(それにしても惜しい)と内心、武骨一点張りの信春の勇断をうらめしく思っただろう。
【この件はいただけない。信房の考えを理解していない】
 信玄が京を目指し、西上作戦を開始したのは元亀三年(一五七二)十月三日、約四万の武田の大軍は、A・B【?】二つの兵団に分かれ、天龍川を南下して二俣城(天龍市)に向かった馬場・山県隊のA兵団【?】が勁彩(同市)を占拠し、徳川方の中根平左衛門正照、青木又四郎衛広次らが籠る二俣城を包囲したのは同月十日だった。だが小高い丘に築かれた城壁は高く、西は天龍川に遮断され、束南北は見渡すかぎりの草原。城からは攻め寄せてくる敵一人、一人の動きが乎に取るようにわかる天然の要害城である。真正面から攻め込めば城内からの鉄砲の標的になるのは明らかだった。歴戦の馬場・山県隊は遠巻きにして闇夜を待った。
 十一日深夜は厚い雲に覆われていた。武田の包囲軍は突然、鉦、太鼓を打ち鳴らして開の声を挙げて三方から城めがけて攻撃した。だが城壁近くに幅四メートルほどの壕が掘られ、地下二メートルの壕の底には尖った竹槍が林立していた。一番隊は馬もろとも壕の中に落ちて竹槍に突き刺さって悶絶した。
 三方に張りめぐらされた長い壕に遮られて狼狽している矢先、城内から撃ってくる盲弾を浴びて武田の将兵は一歩も城内に踏み込めなかった。
 夜が明けて馬場信春は「尋常な手段では城は落とせない」と、力で押しまくる作戦をあきらめて、城で使っている天龍川の取り入れ口の井楼(貯水池)を破壊し、給水を止めて城内を枯渇させてしまう作戦に転じた。
 馬場隊は上流へ遡り、木を伐り倒して筏をいくつかつくり、激流を利用して一気に数そうの筏を流して城内へ流れ込む取り入れ口を破壊した。筏が重なり合って完全に城へ流れ込む川の水を堰き止めてしまったのである。
 一方、浜松城にいた徳川家康は、二俣城に簸城する中根正照らを授け出そうと十月二十七日、自ら数千の兵を率いて二俣城へ急行したが、神増村まで来て、武田軍が城外にひしめき合って包囲している現状に「とても勝ち目はない」と見て、援軍はこの村に滞陣したまま動かなかった。
 水の手を止められた二俣城は、忽ちにして混乱が起きた。それでも1カ月以上も堪え忍んだが、ついに十二月十九日夜、城将中根正照は城の大手門を開けて武田軍に降伏した。
 中根らおもな諸将が人質として捕えられたと聞いた家康は、涙をのんで浜松城へ引き揚げた。
二俣城攻略は長期戦の形で落としたが、京を目指す武田軍にはいらだちの連続だった。そして三日後の十二月二十二日夕刻、三方ヶ原(浜松市)で武田軍と徳川軍、それを支援する織田の援軍が加わって歴史上に残る一大決戦が行われたのである。 
 馬場隊は二俣城攻略の疲れもみせず、信玄のおん曹子【御曹司】勝頼とその親衛隊と共に第二線をうけたまわり乱闘にはいると同時に敗走する家康と鳥居元忠の旗本衆のあとを追撃した。浜松城が間近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡したが、家康と旗本衆はやっとの思いで城内へ逃げきった。馬湯宿春は地団駄踏んでくやしがったと伝えられている。
 


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