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甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
◇勝頼公は信州から遠州平山越えに進み、三州のうりという所にお着きになって、長篠の奥平(九八郎貞昌)のこもる長篠の城を囲み、お攻めになった。
◆家康は、支援にかげつけようとしたがならず、結局は、山県三郎兵衝の軍に妨げられて、相ついで合戦に敗れたため、信長の軍をひきだした。その使者は家康譜代の旗本の奉行人小栗大六(重常)という者である。二度にわたる督促の使いにも、二度とも信長は応じないという御返事である。
そこで三度目には、家康は小栗大六に申しつけた。家康は信長公と誓約を交わし、互いに助け合うとお約束申したとおり、江州箕作の戦い以来、若狭・姉川等あちらこちらで加勢申し上げてきた。この度、信玄公の御来援がないならば、遠州を勝頼公に進呈し、我らは三河一国に甘んじることにより、只今にも勝頼四郎殿と和睦をいたします。この度、長篠城への御支援がないということについては、これまでの誓約は、そちらからお破りなされたわけでありますから、やむなくお約束は水に流し、勝頼と結んでその先鋒をつとめ、尾張へ討って出て、遠州の替地に尾張を攻めて勝頼殿から尾張をいただくことになります。そこで、四郎殿を総大将として、我らが戦うならば、おそらくは、あっという間に尾州の国はかたがつき、きっとこちらのものになろうかと存じます。
といった意味のことを、明らさまにいうことはないが、しかし信長公の耳にあらまし聞こえるように、矢部善七(康信)に向かって確かに伝えるようにと、家康は、小栗大六に申しつけた。
なお、信長の家老、毛利河内(秀頼)、佐久間右衛門(信盛)も援兵に出ていたけれども、三州の長沢からこちらには出ることができずにいた。そのうち、小栗大六は岐阜に到着し、いわれた主旨は伏せたまま、ただ信長公の御旗本勢の御出馬をお願いしたいと申し述べたが、三度目の使いにもやはり出る考えはないとのことである。
そこで家康への使いとして右の真意を矢部善七にあらまし申し渡したので、信長は出陣した。さすが大身の信長も、若い勝頼公が強気なので、出兼ねておられたのだったことは、合戦が終わって五十日のうちにうわさとなったことだ。
◇さて、その長篠において、武田の家老の馬場美濃、内藤修理、山県三郎兵衛、小山田兵衛尉、原隼人その他の老若すべての人々が、「御一戦なさることはこれ以上無用です」、といろいろお諌めしたけれども、御屋形様勝頼公と長坂長閑、跡部大炊助とは合戦を決行してよいと決められた。
御屋形この時三十歳で若かったので、それをもっともと思われ、明日の合戦はもはややめられぬと、武田累代の御旗と楯無しの鎧に御誓言なさった。その後はだれもが何も申し上げることもできず、三州長篠において、
天正三年(1575)乙亥五月二十一日に、勝頼公三十歳の大将として、
その兵力一万五千人、
敵は信長四十二歳、その子息城介殿(信忠)二十歳、その弟(織田信雄)十八歳、
家康三十四歳、その子息(松平信康)十七歳、
兵力は信長、家康の両軍合せて十万で決戦となった。
さて、上柵を二重に設けて、要害を三つかまえて待ちうけているところへ、勝頼公は一万二千の兵で攻めかかって攻防の一戦がなされたが、武田方が全面的に勝利した。
それは、馬場美濃守が、七百の兵で佐久間右衛門の率いる六千ばかりの軍を柵の中へ追いこみ、追い討ちに二、三騎を討ちとる。
滝川(一益)の兵三千ばかりを、内藤修理勢が千ほどの兵で柵の内へ追い込んでしまう。
家康の軍勢の六千ばかりを山県三郎兵衝が三千五百の兵で柵の中へ追いこむ。
けれども家康軍も強敵だから再び突進して来る。
山県勢は味方の左側の方へ廻り、敵が柵の木を仕立て無い右方へ進攻して背後から攻めかかる態勢をみせたのを、
家康勢も察して、大久保七郎右、衛門が蝶の羽の印の差物(鵡欄敵)をかざして、大久保次右衝門は釣鐘の指物で兄弟だと名乗りあげて、山県三郎兵衝衆の小菅五郎兵衛、広瀬江左衛門、三科伝右衛門の三人と声を発しながら追いつ追われつ九度の攻防が繰り返される。
九度目に三科も小菅も傷ついて退く。さらに山県三郎兵衛が鞍の前輪のはずれた所を、鉄砲で前から後へと打ちぬかれてそのまま討死したのを、山県の被官であった志村が、首を甲州へ持ち帰る。
そのあと甘利衆も一接戦あり、
原隼人衆も一戦あり、
跡部大炊助も一せり合い、
小山田衆も一せり合い、
小幡衆も一せり合い、
典厩衆も一せり合い、
望月衆も安中衆(安中左近)も、いずれの軍蟄も戦闘で皆柵際へ敵を追いつめて勝利した。
甲州武田勢の中央の軍と左翼の戦いは以上のようなものである。
さて右翼の方は、真田源太左衛門(信綱)、同兵部助(真田昌輝)、土屋右衝門尉(昌次)この三将で、馬場美濃衆と入れ替わり戦ったが、上方の軍勢は家康衆のようには柵の外へ出て来ないので、真田衆が攻めこんで柵を一重破って突進した、そのためあらかた討死してしまった。あるいは何とか重傷のまま引き下った者もいたが、
その中の真田源太左衛門兄弟はともに深手を負ったまま討死した。
次に土屋右衛門尉は、先月の信玄公の御葬儀では追腹(殉死)をはたそうとしたが高坂弾正に意見されて、このような合戦まで待てと言われたにつき今まで命ながらえてきた。今こそ討死するのだと言って、敵が柵の外に出て来ないので、自分から攻め込んで柵を破ろうとし、そこで土屋右衛門尉は三十一歳でそのまま討死となった。
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