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甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
〔読み下し〕
馬場美濃守のひきいる七百の部隊も、あらかた負傷して退き、または討死して残るは八十余人。美濃守自身は軽傷も負っておらず、他の同心や被官たちに早く退けとすすめなされたが、さすが武勇の武田勢ゆえ、美濃守をさしおいて退こうとはしない。
穴山殿は戦闘を交えることもなく、退く。
一条右衛門大夫殿(信竜)が馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せて一所にいるとき、一条配下の同心和田という者は、三十歳ほどであったが、合戦慣れのした利口な武者ゆえ馬場にむかって、下知をなされるようにという。馬場美濃守はにっこりと,笑ってそれを聞き、命令するとすれば退くよりほかはあるまい、と退却を始めた。しかし、御旗本隊が退くまでは、馬場隊も退かず、勝頼公の「大」の字の御小旗が、敵にうしろを見せたのを見とどけてから馬場美濃も退かれた。
そのあとは一条殿も他の軍も退きなされた。
だが馬場美濃守は、いったん退却しながらも長篠の橋場までくると少しもとへ引き返し、高い所にあがって、我れこそは馬場美濃という者なり、討ちとって手柄にせよとまことにみごとに名乗る。敵兵四、五人が鑓を取って突きかかるのに刀に手もかげず、この歳六十二歳で討死をとげる。
これは、勝頼公にこの合戦を思いとどまられるようにと意見したとき、この美濃守の意向をお聞き入れがなかったので、そこで長坂長閑、跡部大炊助にて、合戦をおすすめするおのおの方は遁れることがあろうとも、おとどめ申す馬場美濃はおおかた討死をとげるのだ、と述べた、そのことば通りであった。
ここで勝頼公につき従っていたのは、初鹿伝右衛門というこの年三十二歳の者、土屋惣蔵その年二十歳の二人が御供であった。土屋惣蔵は若いけれども剛強な根性があるから、兄の右衛門尉をたよりなく思って、かわりに二度かばって後退する。勝頼公は土屋惣蔵をふかくいたわっておられたから、二度とも御馬をとめて惣蔵を先にやりすごしながら立ち退きなされる。
その次に典厩の歩兵三十ほどと、馬乗三騎の将が後退したが、幌を着けていなかったから勝頼公は声をかけられた。金地金泥の幌に四郎勝頼と我らの名を書いて、信玄公の御時には先鋒をつとめたものだったが、今は我らが屋形の立場にいるから、その線を典厩に譲った。これを捨てなされば、譲るのは内輪のこと、勝頼が指物(標識)を落して逃げたといわれては、信玄の一代の名誉と御名をよごすことになる。とくに武田家、二十七代までのうちで勝頼一人が不孝をしたことになる。だからこの幌を捨てては退くわけにはいくまい、
と仰せられたので、初鹿伝右衛門は典厩の所へ乗り寄せこの由を伝えると、さすがは武田の武者、旺盛に戦って幌串をひろい、典厩の御供の青木尾張という者がこの幌衣をひろって首に巻いてもってきて伝右衛門に渡した。これを伝右衛門は請けとり勝頼公にお目にかけると、勝頼公はそれを御腰にはさんで立ち退かれた。伝右衛門はこの間、御使いに参上し、往復五六町働き廻ったが、そのうち勝頼公は御馬をとめられた。それは御馬がくたびれて動かなかったので、初鹿伝右衛門が御馬に声をかけて進めようとしたのだが、昔から今にいたるまで武勇の大将の敗け戦には、えてして馬も進まぬものなのだ。
そんなところへ笠井肥後守(河西満秀)という、信玄公の御代から旗本において指おりの剛強な武者が、どこかで勝頼公の御馬が動かなくなったと知って馬を速めて駆け付けてきて、馬からとび降り、この馬にえさを与えるからと言う。
勝頼公が言われるのに、そんなことをしていると、そなたは討死してしまうぞとの御言葉に、ものともせず、肥後守の命は義理よりも軽いことです。この命は主君への恩の為にさしあげます。我らの倅を以後取り立てていただければそれで満足、と言って屋形(勝頼公)を馬にお乗せする。自分は屋形の御馬の子綱をとって誘導いたし、それから元の戦場に一町ほどもどってから討死した。
さて信玄公が勝頼公へ御譲りし扱いを許しなされた、諏訪法性院上下大明神と前立に書かれた甲は、信玄公が御秘蔵になされていたから、諏訪法性の御甲、とこれを呼ぶ。この御甲を勝頼公も御秘蔵されておられたけれども、五月の頃とて暑いため、初鹿伝右衛門に持たせておられた。伝右衛門はあわただしく急ぎのあまり、この甲を捨ててしまおうというわけで捨てたのだ。けれども小山田弥助という武士が、あとからこれを見つけて、名高い御甲を捨てるのは何としてもといって持ち帰った。このように何も残さない心意気、義理深い剛強な心というのは、ひとえに信玄公の御威光が強くしみわたっているたまものである。 
御他界は天正元年酉の年だけれども、天正三年乙亥五月までの三年間は、ともかく強かったことは以上の通りである。これは勝頼公三十歳の御年のことで、三州長篠の合戦をいうのである。
甲州方は、侍大将、足軽大将、小身な兵まで、また剛強な武士とことごとく討死した敗北の合戦であった。
討死した将は、
馬場美濃守、
内藤修理、
山県三郎兵衛、
原隼人佐、
望月殿、
安中左近、
真田源太左衛門、
真田兵部助、
土屋右衛門尉、
足軽大将の横田十郎兵衛で、他はまた追って記したい。
城伊庵 (城景茂)は深沢(御殿場)へ、小幡又兵衛は足助(愛知県)へ出動していたから、この両人は足軽大将として残った。 
御飛脚がたてられてすぐに甲府へ呼びもどされた。

甲州勢がこの合戦で少勢だったのは、越後の謙信から前年(天正2年)の十二月に、一向衆長遠寺(長延寺住職)を経て勝頼公に御断りがあったのによる。それは、遠州・三州・美濃の三カ国を制圧しつつ来春、勝頼公は御上洛なされよ、謙信は越前から上洛をめざすから、というのであった。が、勝頼公が承諾した旨の御返事をなさらなかったから、輝虎が立腹されたのだった。
さらに東美濃、遠州の域東郡で、勝頼の先鋒が見事だと聞いて、謙信が信濃へ進攻しないのは勝頼公を恐れてのことだ、などと諸国から言われてはと考えて、信濃へ手をだすかもしれないと内々考慮しているとの報もあって、一万余の信州勢を高坂弾正に任せて越後のおさえこみに置きなされたからだった。だから勝頼公の総勢は、長篠へは一万五千で出陣なされたのである。
その中でも長篠の奥平貞能のおさえに二千の兵をさぎ、鳶巣山には、兵庫殿(武田信実)を大将にして、浪人衆、雑兵千人で、名和無理介、井伊弥四右衛門(飯尾助友)、五味与三兵衛(高重)の三人を頭にして差し向けておいた。この方は一人も残らず兵庫殿をはじめあらかた討死であった。このように一万五千のうち三千の兵を失って、信長、家康勢に向うのはただ一万二千ということになったのだった。


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