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源義光の子、義清生まれる
承保二年 (一〇七五)
−義光
(中略)
→義業
一男。母甲斐守知贅女。戟刑部太郎。進士判官。相撲権佐(介欺)住常陸国(茨城)。佐竹之租也。
→義清
二男為正嫡。母同上。白河院御字承保二乙卯(1075)四月十六生 於江州志賀御所。童名音光丸。
寛治元丁卯(1087)十一月十五元服。十三歳。加冠伯父義家朝臣。号刑部三郎。従五位下。甲斐判官。
右馬助。兵庫助。左衛門尉。刑部少。民部少。治部少。甲信遠等之大守。
嘉保元甲成(1094)八月五日糾方的博。師範義光。以有其器。
抽兄弟獨得家法。
久安五己巳(1149)七月廿三卒。†五囁
墳墓在甲州市川庄。
→盛義
三男。母同上。平賀冠者。
→親義
四男。母同上。間門冠者。
(「小笠原系図」続群書類従巻百二十四)
〔解説〕須玉町誌
甲斐源氏の実質的な祖は、義光の次男義清(刑部三郎と称することから、最初は三男として出生した可能性が高
い)である。生年の承保二年(一〇七五) は諸系図とも一致するが、『小笠原系図』のみが四月十六日と、月日までを記す。同系図の義光の生年とあわせると、義光十八歳の時の子ということになる。長兄の義業は常陸佐竹氏の祖、弟盛義は信濃平賀氏の祖となるが、母は兄弟皆同じく、甲斐守如実(『尊卑分脈』では知家)の女とされる。
しかし、浅羽本『武田系図』(史料136)では、義清の母を常陸国の住人鹿島清幹の女としており、後述のように義清が甲斐国へ移住する以前、常陸国にいたことは明らかであり、この説もー考に値する。また、義清の出生地を近江国志賀御所、童名を青光丸とするのは、『小笠原系図』独自の記載であるが、その依拠するところは明らかではない。また、経歴については父の義光のそれと重なる部分が多く、上の潤色とみられるが、甲斐判官になったという伝には一応、注目しておきたい。義清と甲斐国の関係については、後掲の史料134の解説を参照。
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