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刑部丞源義光、馬二疋を右大臣藤原忠実に贈る(須玉町誌)
康和四年(一一〇二)二月三日、瑚、天晴、午剋許長門牛牧牛将来、六頭也、其外一頭威徳□(米斤)一頭、酉剋許陸奥守實宗(藤原)送馬四疋、又義光認、馬進、是去年差使者面敢遣也、
義光二疋、成剋」許渡威信房、(「殿暦」)
〔読み下し〕
二月三日〔戊子〕。天晴る。午の剋許り、長門牛牧の牛将来る。六頭なり。其の外の一頭は威徳料の一頭。酉の剋
許り、陸奥守実宗馬四疋を送る。又義光〔刑部丞也〕、馬を進る。是れ去年使者を差して取り遺す所なり。義光二疋。成の剋許り、威信房に渡す。
〔解説〕
『殿暦』は、関白太政大臣藤原忠実の日記である。晩年、次男頼長が保元の乱に赦したことに連座し、知足院に幽閉され、ここで没したため、知足院殿とも称され、その日記は『知足院殿記』『知足院関自記』とも呼ばれる。源義光が当時は右大臣であった忠実に馬二疋を贈ったことが知られる。刑部丞の義光は、武士として活躍していたというよりは、中下級貴族の多くがそうであったように、権門に奉仕する一役人として中央政界に生きていたのである。このような私的な責馬は、公的な駒牽が衰退した十二世紀に、むしろ一般的に行われていたがヾ使者を派遣して取りに行かせたというその馬が、どこの国に慶したものかは定かではない。
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