|
源義清の子、清光生まれる(須玉町誌)
→清光
一男。母上野介源乗宗女。
天永元年(1110)
六月九生甲州市川舘。
天治元年(1124)
正月十二几服。十五歳 加冠源義園。号甲斐冠者。黒源太。従五位下。右馬助。童名徳光丸。兵庫助。左衛門尉。治民兵刑等之少輔。信相豆速筆四ケ園之管領。甲斐国大守。糾方不傳。
仁安三戊子七月八草。五十九囁墳墓在甲州逸見。
→師光
二男。母家女居。号方原二郎。参州方原下司。
(「小笠原系図」続群書類従巻百二十四)
〔解説〕須玉町誌
源義清の第一子、清光の伝が最も詳しい系図を掲げた。
生年の天永元年 (一一一〇)、上野介源兼宗の女が母という点は、諸系図とも一致している。ただし甲州市川館の生まれというのは、大治五年(一一三〇) に至り、父義清とともに常陸から甲斐に配流されてきたこと(史料134参照)は明白であるから、後世の附会に過ぎない。また、経歴についても、義清のそれと同様、僭称もしくは系図作者の潤色であろう。「甲斐冠者」は、『尊卑分脈』などに「免(逸)見冠者」と称されたことが記され、後に逸見(現在の北巨摩郡方面・韮崎市、北杜市)に勢力を張ったことを裏づけるもので、逸見に墳墓ありとする伝も注目される。ただし、その逸見の中心地がどこであったかは判然としない。『甲斐国志』は、義清・清光二代の居館が若神子にあるとし、本所は『吾妻鏡』に伝える治承四年(一一八〇)九月、平家方の管冠者を討った後に甲斐源氏が集結した「逸見山」に相当すると推定している。本町の若神子城跡がそれにあたるが、大泉村谷戸にある谷戸城跡を逸見山の居館とみる説が、近年では有力視されている。また、中世の逸見荘(建長五年一〇月二一日の近衛家所領目録に「甲斐国逸見荘冷泉宮領内」
とあるのが初見)は、古代の逸見郷の北部にあたり、おそらく御牧の柏前牧を併合して成立したとみられる逸見牧
(磯貝正義「古代官牧制の研究」『郡司及び采女制度の研究』)の後身である可能性が高いことから考えあわせると、
清光が勢力を広げた逸見の範囲は、須玉町から北は高根町・大泉村一帯に及ぶ広範な地域だったと思われる。いずれにせよ、八ヶ岳南麓の広大な牧場地帯を周囲に配し、信濃・佐久方面との交通の要衝でもあった逸見の地を支配す
ることによって、豊富な財力と強大な兵力を養い、甲斐源氏発展の基礎をつくったのが、逸見冠者清光であったこと
は間違いない。ちなみに、諸系図とも清光を「黒玄太」と注記するが、おそらくこれは彼が色黒であったことから付
けられた通名であろう(?)。
|