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《甲斐駒ケ嶽神社》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
駒ケ嶽頂上に、大己貴命(おおなむちのみこと)及び少彦名命(すくたひこなのみこと)を祀り、横手の東麓登山口にその前宮を創建したのは、社伝によれば、雄略天皇の二年六月のことで、出雲国宇迦山より遷祀したとされている。もとより信ずるに足りない悠遠の昔のことであるが、昭和五十九年、前宮の社地の北面の一隅、祈祷殿改修の場所より、縄文式の大型の土器が出土した。この社地に縄文時代より人間が住み、且つこの地が、駒ケ嶽蓬拝所であったとする推察も成り立つのである。
住民或いは、駒ケ嶽信仰をする他郷の人々が、主神を大己貴命(大国主命)と認識することは、一般的でなく、「甲斐国志」の言うように山頂には駒形権現、馬頭観世音、或いは摩利支天が祀られているのだという認識の方が強かった。神仏混淆した修験道の色彩が濃厚であった証左であろう。単に「駒ケ嶽さん」と愛称して山岳そのものを尊崇する気分があった。従って、駒ケ嶽神祉の性格は、明治以前、神仏分離が行なわれるまでは、極めて修験道的な祭祀の場であったと考えるのが自然であろう。
駒ケ嶽神社の前宮は、もう一つ尾白川の渓谷に沿った千ケ尻にもある。不思議なことに、この前宮に関する社記の類が見当らず、「甲斐国志」もこれに触れていない。昭和三十七年刊行の「峡北神杜誌」なども書き落している。このことは同所に設けられた神道御嶽教、駒ケ嶽大教会所などが、便宜的に近い過去において山神を勤請した「前宮」であったことを想像させるのである。
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