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《甲斐駒ケ岳登拝路》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
その登拝路は、横手前宮を基点とする黒戸登山道と、千ケ尻前宮を基点とする尾白川登山道の二つが一般的で、他に、千ケ尻前宮から直接黒戸尾根にとりついて、笹ノ平で横手口と合流するものもあった。
尾白川登山路は、源流にかかる千丈ノ瀧下流において、左方の急坂を直登して、五合目屏風岩に到り、黒戸登山道と合流するが、これらの登山道は、屏風岩の峻瞼を経て、七合目の七丈小屋に達し、八合目の鳥居場において、朝日を拝して、やがて山頂の本宮に到達するように開かれている。
信仰登山が衰退して、一般登山者が盛んにこの山に登山するようになっても、一般的登山道はこの何れかの道を利用する。従って、現在その登山道の両側には、かっての信仰登山の痕跡を随所に見ることができ、稀には白衣の行者の行の実際を見ることもできるのである。屏風岩の下には、かって、二軒の山小屋があった。荒鷲(アラワシ)と自称した中山国重の経営する屏風小屋は先年廃絶したが、五合目小屋は今も現存し、昭和五十九年、小屋番の古屋義成が、日本山岳会有志の応援を得て、創業百年を祝った。古屋義成によれば、この小屋は、明治十七年(一八八四)修験者、植松嘉衛によって行者の祈祷所として開かれたものという。何れにしても、これらの白州町からの登山道はその峻瞼の度において、全国有数のものであって、それだけに開山当時の弘幡行者の苦辛が十分に想像され、男性的魅力に富む豪快な近代的登山の醍醐味を味うことか出来るのである。
ここに、明治十二年(一八七九)管原村井上良恭という人の出版になる「甲斐駒ケ嶽略図」と題する木版図がある。峻瞼雄大な駒ケ嶽の山容を一面に刻して、山中の地名、祭神などが詳細に誌してある。それによると、駒ケ岳山頂―大已貴命鎭座、摩利支天峰-手力男命鎭座、黒戸山―猿田彦命鎮座とあり、尾白川渓谷の不動ノ瀧附近には大勢利龍の名がある(この両爆が、同一のものか別個のものか不詳)。千ケ尻前宮のあるところには、遥拝所と書いた鳥居があって、「前宮」の名前は誌してない。横手の前宮は全く記載していない。思うにこの図面は、駒ケ岳の案内書の如く見えるが、神仏分離後の明治十年代の駒ケ嶽観を現わしていると考えられる。駒ケ嶽の、横手と竹宇(千ケ規)の両前宮が両立し、互いに表登山口を主張するようになるのは、このころからであって、管原村居住の井上良恭は、菅原口(竹宇、千ケ尻)こそ表参道であり、表登山口であることを主張したかったのではないかと推察できるのである。もっとも肝要と思われる横手前宮を無視し、竹宇前宮を遥拝所と誌したことは、一面、修験道的信仰登山から、近代的登山への脱皮を示しているとも考えられるのである。
参考までにもう一つ図面を紹介する。「甲斐駒ケ嶽登山明細案内図」と称する昭和二年(一九二七)の印刷物。発行老は管原村井上正雄である。井上良恭の子孫ではないかと想像されるが、明らかに明治十二年の木版図の改訂版であることが判かる。この図面では、横手と竹宇の両前官が大きく描かれている。登山道は、前者に比して逢かに具体的実用的に描かれているが、鎭座する神々の間に多くの変更があるのは注目されてよい。山頂には大已貴大神と共に駒室大神が祭られている。摩利支天峰には摩利支天、西峰には天照大神と馬頭観音、鳥帽予岳には薬師大神と大頭羅白神という神名が見える。黒戸山には刀利天と大日大神が祀られている。
明治十二年と昭和二年とは年を隔てること四十八年。この約五十年間に、案内図を作製しようとした二人の井上氏の間には、駒ケ嶽の山神について、その表現にかなりの相違があるのである。
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