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【武川衆、徳川へ臣属】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
米倉主計助忠継・折井市左衛門次昌を介して家康に臣属した武川衆は(七月一五日「徳川家康判物写」寛永諸家系図伝)、天正一〇年(一五八二)六月織田信長が本能寺で討たれた後、徳川・北条氏が対決した天正壬午の乱で活躍し本領安堵された。
当村域にかかわるものは、
柳沢郷で柳沢信俊七二貫八〇〇文・小沢善大夫三貫文、
新奥郷で青木信時一六貫文・折井次昌二貫文、
宮脇村で米倉豊継一五二貫五〇〇文・同信継一〇貫文、
牧原で小沢善大夫に六貫文などである。
このほか山本忠房・同十左衛門尉・五味太郎左衛門・五味管十郎・折井次正・折井次忠・米倉定継・横手源七郎・曲淵彦助らの武川衆に与えられた所領は総計二千二四二貫文余に上る。
天正十二年の小牧・長久手の戦、翌年の上田城(現長野県上田市)攻めに参戦した武川衆は、伊奈熊蔵の検地によって天正十七年十二月十一日に七千三三五俵余の知行が認められるが(「伊奈忠次知行書立写」記録御用所本吉文書)、このうちには
宮脇郷四五八俵余
黒沢郷一八四俵余
柳沢郷一六〇俵
新奥郷二四五俵余
山高郷一八〇俵が含まれている。
さらに北条氏攻撃を目前に控えた翌年一月に加恩された二千九六〇俵のうちには、
山高郷四七八俵余
三吹郷二二四俵余
牧原郷一五一俵余
宮脇郷八四俵余
があり(「徳川家事行連署知行書立写」同古文書)、
折井次昌・米倉忠継に各四〇〇俵、
馬場信盈・曲淵吉景・青木信時・同満定に各二〇〇俵
のほか、一八名の武川衆に八〇俵ずつが加増された。北条氏滅亡後の同年七月家康は関東に移封され、それに伴い武川衆も多くが武蔵国に、一部が相模・下総国に移住していった。
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