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【武川村生業、明治から大正〜昭和時代】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
明治八年、新富村・武里村が成立。同一一年北巨摩郡に所属した。同二二年新富村・武里村は組合村となる。昭和八年新富村・武里村が合併して武川村となり、同三〇年駒城村の一部柳沢を編入した。産物は米で、南アルブ
スを水源とする釜無川・大武川・小武川・尾白川・石空川・黒沢川の諸川は砂質壌土の水田を潤し良質な武川米の生産地として知られる。この声価は地主と小作人との約束として、小作米は品種を限定して良質米を納めたことも一因となっている。馬は近世以来多くなり、ほとんどの家で農耕馬として飼育するようになった。
大正五年頃は柳沢三二〇、新富一六六、武里九九の馬が飼育され、用途は農耕用のほか荷車引として稼馬があった。
第二次世界大戦後は馬から牛に替わったが、耕運機の普及によりしだいに減少し、今では肉牛と乳牛が真原開拓で飼育されている。副業として養蚕も盛んで、各集落では蚕玉大神を祀り、住宅は蚕の飼育場となった。
昭和四〇年代後半からはほかに現金収入の通が開け、養蚕は衰微した。また山稼も薪取・炭焼、建築用資材の伐採などで働いていたが、時代の進展に伴いまったくなくなった。冬仕事としては水害で流された耕地や堤防仕事に土方として出労した。
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