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【問屋 甲州道中・浅間山大噴火・お茶壺道中】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
問屋は無給であったが、その代り商人の荷物から、一駄につき五文づつの口銭を取って役料に当てた。年間千五駄であるから、七貫五百文の口銭を得たことになる。馬差は馬匹配備の要職のため、壱ケ年籾壱石五斗・麦壱石五斗に給金弐両であった。
甲州道中も当初は、甲府以西は人馬各二十五を備えた宿場で、諏訪・高遠・飯田三藩の通路であつたほか大掛りの通行は稀れであったから、宿民たちは農耕に従事できた。
ところが天明三年(一七三八)七月、浅間山の大噴火によって、中山道が閉鎖となり、いきおい甲州道中を利用するようになり、従来の型は破られ、俄然宿駅は目の回るような日々が到来する。
加えて延宝九年(一六八一)六月、「お茶壺道中」が、大名行列なみに通行し前後二回も田中神社を宿舎としたことなど、考え合わせると実に過重な負担が課せられた。
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