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【甲州道中 宿場の混迷と対策 助郷制度】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
「天明六年台ケ原宿書上」によると、天明四年分の人馬出動数は、人足三〇四七人、馬三九三五疋、そのうち助郷人足二四六人、馬一四三疋で、翌年になると倍の課役となり、天明五年分の中馬荷物の通過数は一八四〇駄を示し、宿民はこれが対応に苦慮した。
この窮状に台ケ原宿ではついに音を上げて、隣接の三吹村に加宿郷の訴訟をして認められ、天明五年では六分の一(御定人馬各二五)を負担し、四人四疋を台ケ原宿に駐在させ、武家荷物の運搬では、上りの場合は蔦木宿まで継立を分担させたので、三吹村から苦情が出て、助郷だけは免除となった。これをカバーするため、定助郷のほか、臨時夫役として、大助郷に白須・横手・日野・片嵐の四ケ村が指定された。
道中も貨客の利用者増加に伴ない、寛政八年(一七九六) には、宮脇・山高・柳沢・牧原・新奥・黒沢の六ケ村が追加され、さらに文化三年(一入〇六)には、上記六ケ村が過重であるとして、七里岩台上の大八田・塚川・長坂上条・渋沢の四ケ村を代助郷とした。
文化三年(一七四六)には、再度三吹村が加宿負担に耐えかね、四人四疋のうち、三人三疋を御免となり、この分を中丸村と上黒沢村・夏秋村・長坂下条が負担をした。中丸村と上黒沢村が一人一疋、夏秋村とが一人一疋の割合である。
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