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山梨の歴史講座 甲斐勅旨牧(御牧)《筆註》美津御牧(美豆御牧)
① 『日本馬政史』(巻一P473〜474)に次の記載がある。
美津御牧の件−文治四年(1188)四月四日、被獻武衛御返事事造内裏事、早可致沙汰 、御厩司(ムマツカサ)事勅定之上非可辭申給 、美津御牧者、承及者為御厩ノ菅地歟、為後代今度尤可令申付給哉云々、(東鑑) (因云)美津御牧とは延喜式に云ふ、山城国美豆厩、(畠十一町)野地五十町餘、右二寮夏月、簡 御馬不肥者遣飼、亦諸祭寮ノ馬、同令 放飼 とある是也。 ② 『大日本地名辞書』によれば山城国久世郡の御牧は、美豆と稱し木津川両岸に渉る。「名勝志」に云、美豆御牧は淀大橋の北也。古は馬寮の御牧にて放飼の地也。今美豆は綴喜郡に属し、狭少なれども、御牧は数村となる。 ③ 「夫木集」にある順徳院の御歌に、かりてほす美豆の御牧の夏草はしげりにけりな駒もすさめる とある是也。 前記の美津御牧(美豆御牧)の歌は甲斐御牧とは何らの関係も持たない御牧である。また眞衣野牧や柏前牧の歌は見えなく、『甲斐国志』の眞 衣郷の二首も他の御牧の歌である。美豆御牧を詠んだ歌は数多くありそれは凡そ次のようである。 17、美豆御牧 小笠原みつのみまきにあるゝ駒とれはそ馴るこらが袖かも 『六帖集』
小笠原みつのみまきにあるゝ駒とれはそ馴るこらが袖かも 『夫木集』
みつのみまき
まこもかるみつの御牧の駒の足早く楽しき世をもみる哉 『兼盛集』 隔河戀
山城の美豆の里に妹を置ていくたひ淀の舟よはらむ 『頼成卿集』 美豆御牧
五月雨に里にもみつの河近みほすかりこもや庭の浮草 『和歌名所詞花合』 美豆の江のまこもゝ今は生ぬれはたなれの駒を放ちてそみる 『堀川院御時百首和歌』 かりてほす美豆の御牧の夏草はしけりにけりな駒もすさめす 『内裏名所百首』 こりこもの五月の雲に成にけり美豆の御牧の夕暮の空 まこもくさ末こそまては日数ふるみつの御牧のさみたれのころ 美豆御牧
徒に美豆の御牧まこも草からて浪こす五月雨の比 『菊葉和歌集』 名所百首
五月雨に駒もすさめすまこも草美豆の御牧に浪にくちぬる 『順徳院御集』 美豆御牧の歌はまだ多くある。『甲斐国志』以来の甲斐地書は『国志』を引用し自己解釈を続け。結局は不詳と
なってしまった。歴史学の欠点は間違った私説記述を訂正しない傾向にある。中には自信たっぷりに「である」と言い切る文献もあるが、その論を裏づける資料は何も見えない場合がある。市川団十郎の伝記などその良い例である。諸説ある出生地についても甲斐国市川(周辺)の出身と断定し、それらしい説を肉付けして信憑性を増す手法は歴史創作にはよくある事である。史実であるなら単純に有効な史料を示すだけで事足りる問題である。甲斐の古道(官道)なども『延喜式』の駅名の順序が逆として論を展開しているが、その論拠は誠に心許ないものである。視野の狭さと研究不足が目立つ。歴史の確実さを追求するには、膨大な時間と弛まざる研究姿勢が必要であり、旧説との妥協や思い込みの先行する歴史論からは真実には迫ることはない。元来「謎を解明する」等の書や論文は「さらに謎が深まる」場合の大多く「耶馬台国論争」など好例である。 柏前牧と眞衣野牧の位置関係や運営に携わる人々の関連の深さは文献書から浮かび上がる。文献からは眞衣野牧が主で柏前牧副と思われる。それは眞衣野牧の単独駒牽はあっても柏前牧単独での駒牽はなく、必ず眞衣野牧とセットで実施されているからである。眞衣野牧を現在の北巨摩郡武川村牧ノ原一帯(最近の研究ではその地域が拡大している)、柏前牧は高根町樫山附近の比定ではそうした三つの関係は想定できないのである。次にその眞衣野牧について史料をみる事にする。 |
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