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山梨県の自然災害 武田信玄の治水
(参考『若草町誌』一部加筆)
後奈良天皇の天文十年(一五四一)武田晴信(信玄)は父信虎を駿河に追放して甲斐の国主となった。その前年の天文九年に大暴風雨があり、十一年秋には釜無川の大洪水のため、甲斐一円は泥海と化し、田畑・人畜の被害は目を覆う惨状であった。
信玄は中国の古典に深い造詣を持っていたが、とくに「万里の長江、あに千里に一曲せざらんや」「水を治むる者は天下を治む」という哲理に心酔し、これを甲斐の治水政策の上に見事に適用したのである。
川除けの築堤術というものは、よくよくその流れの特徴を分析して行わないと、築堤の反対側が必ず破れるという鉄則があり、自然の流れに逆らうと予想外の方向に流れてしまうのである。黄河の氾濫に悩まされた中国人は、自然に流下する水路を見極めた上で、無理なく堤防を築いたところ、これが見事に成功した。
信玄はこの点に着目し、普請奉行に命じて釜無川の激流が洪水の時、どのように甲府盆地を襲うのかを研究させ、その原因が本流の釜無川だけにあるのではなく、支流の御勅使川にあることをつきとめた。
そこでこの両川の治水工事に天文十年(一五四一)から取り組み、二十年間に及ぶ大工事ののち、永禄三年(一五六〇)にほぼ完成した。
《筆註》
この記載事項には一部史料に基づかないものがふくまれている。(赤字部分、以下疑問箇所も)
工事のあらましは、八田村の六科に将棋頭という圭角の石堤を築いて御勅使川を表裏二川に分流させた。分流した新川をさらに割羽沢と合流させ、再び新川に合流させて水勢を弱めながら釜無川に合流させて相牽制させ、さらに東岸の古同岩(現竜王町)に当てて水勢を殺いだのである。
釜無川と御勅使川の合流点には十六個の巨石(十六石と呼ぶ)を並べて、逆流により西岸の本堤が決壊するのを防いでいる。自然力を利用した、まことに巧みな工法であった。
さらに高岩の下流には東岸に堅固な堤防を築き、堤上に竹木を植えて防水林とし、本堤にそってさらに雁行状の突堤をいくつも重複して配列した。治水の方でいう、いわゆる速水刷砂の原理を応用した。「霞堤」である。
これによって暴流を制御し、もし一つの堤が決壊しても第二、第三の堤がこれを防ぐようになっており、後世まで「甲州流川除け」として治水法の模範とされたのである。
「信玄堤」は、今日なお竜王、昭和、田富町地内にその一部を残して偉業を忍ばせている。
『甲斐国志』巻之二十八山川部第九(釜無川)
○信玄堤
古老ノ説ニ雁行ニ差次シテ重復セル堤ハ甚タ利益アリ、其故如何トナレハ河邊ニ棄地アレハ、洪水ノ時自由ニ流レテ激怒セス、堤防壌決ノ患ナシ水漸々ニ耕地ニ入レトモ、敢テ秋稼ヲ害スルニ至ラス、砂石モ従ヒテ流レ河底ニ滞ル事ナシ、若シ一堤決崩ストモ、次堤相支ヘテ大破ニ至ラス、今ノ堤ノ一所決潰スレハ数村ノ田園ニ砂石ヲ押埋メ、数年荒廃ノ地トナルカ如キニハ非ス。
『甲斐国志』巻之二十八
○山川部第十二(御勅使川)
口碑ニ云古昔洪水ニ因テ、勅使ヲ下シ堤防ヲ修セラルゝ事三次、遂ニ成績アリテ西郡諸村ヲ開ク事ヲ得タリ。民其徳ヲ不朽ニセント御勅使川と称ス。其後藪百歳ヲ経テ川路彌々高ク、水勢建瓶ノ如クナリシカバ釜無河之カ為ニ東
折シテ北山筋、中郡筋ノ卑地へ向ヒ凱流極マリナカリシヲ、武田信玄ノ時ニ至リ大ニ水役ヲ興シ、下條南割ニテ巌石ヲ?(金産)鑿襲スル事廣拾八歩上流ノ駒場、有野ニテ石積出ヲ置キ、駿流ヲ激シテ斜ニ東北へ向カハシム、対岸ハ龍王ノ赤巌ナリ、麦(一名高岩)又六科村ノ西ニ圭角ノ堤ヲ築キ、流ヲ両派ニシテ以テ水勢ヲ分ツ、是ヲ将棋頭と云、其突流シテ釜無河ニ会スル所ニ大石ヲ並置テ水勢ヲ殺ギ釜無河ノ水ト共ニ順流シテ南方へ赴カシム、於是暴流頓ニ止ミ龍王ノ堤ヲ築キテ村里ヲ復スル事ヲ得タリト云、凡ソ治水ハ国家ノ専務ナリ古人ノ心ヲ用フル事如斯精シト謂フヘシ
『山梨県水害史』
(参考『若草町誌』一部加筆)
また、『山梨県水害史』には次のような記述がある。
信玄の堤防は水を以て水を流すの法に則りて修築し、之を保護するに人力と自然力とを併用したるものにして、彼の移民保護の如き又御幸祭の如きは、其政策施行の手段に外ならざるものとす、而も信玄は堤防萬能の人に非
ず、能く地の勢を察して術を施せり、笛吹川に一大水防林を設定したるが如きも即ち之なり、且又信玄の治水策は兵法を応用したるを見る。彼の御勅使川の水勢常に奔流激端龍王の堤防を衝くを憂ひ、有野に堅固なる石堤を築き、其水を東北に奔逸せしめ、六科の西方にて其水勢を分割せしが如きは其一なり。
孫子日「我専らなれば一となり、敵分るれば十となる、是れ十を以て其一を攻む則ち我衆にして而して敵寡し」信玄亦此意を以て将棋頭なる石堤を川の中央に築く、而して其一派をして支流たらしめ、其本流をして龍岡村の南岸を壁襲して其下を走らしめ、十六石にて水勢を混乱せしめたるが如きは其二なり。
孫子日く「夫れ兵の形は水に象る、水の形は高きを避て而して下きに赴く、兵の形は実を避て虚を撃つ、水は地に因て而して流れを制す、兵は敵に因て勝を制す故に兵は常勢無くして水に常の形なし能く敵に因て変化して勝を取るもの是を神といふ」と、信玄の治水策の淵源する虜誠に遠深なる、豊兵法に出でさるなからんや。
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