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山梨県の自然災害 若草町の風水害
(参考『若草町誌』一部加筆)
若草町の地域は東側が釜無川氾濫原、北西側が御勅使川扇状地、南側が滝沢川の氾濫原という地理的条件のため、昔から度々風水害の被害を被ってきた。とくに鏡中条、浅原地区は度重なる釜無川の氾濫により被災の歴史をつづっている。
『甲斐国志』によれば、
○浅原村は天正十四年(一五八六)から寛政三年(一七九一)までの間に五回の移住を繰り返している。寛永年間から(一六二四)は大半の者が西花輸の地に仮住まいし、寛政三年になってようやく当地内新田(現在地)に移住したという。ただしもとから居住していた者は地内の枝郷、三軒屋に集落を形成していたという。
また、浅原という地名の由来も、釜無川の氾濫で一面に水が覆っている状態を表したものだともいわれる。
○鏡中条も『甲斐国志』によれば、釜無川の水難のため、もとの位置より西へ移動したものであるという。
慶長六年(一六〇一)の検地によると村高八一〇石余の反別内訳は田二五町余、畑二五町余、ほかに荒地として田一四町余、畑一〇町余があり、打ち続く釜無川の氾濫のため荒廃した耕地がいかに多かったかを示している。
また釜無川の川除普請の堤防が六ヵ所あり、普請用の渡し舟一隻が置かれたとある。
○寺部村も同じ慶長六年の検地で、村高五二五石余の耕地面積は田三町
余、畑二二町余となっているが、天正十七年(一五八九)に行われた代官伊奈熊蔵の検地、いわゆる「熊蔵荒」では荒地一六町余と記録されており、水による被害が激しかったことを物語っている。
武田治世が終わる天正十年(一五八二)までにも甲斐は度々大水害に見舞われており、天文十三年(一五四四)、十五年、十九年、二十二年、元亀元年(一五七〇)、天正二年(一五七四)などの記録が残されている。
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