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北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏 資料名 鎌倉幕府の成立と吉田郷 『勝田市史』中世
一、 源義清と武田郷
佐竹氏の性格 常陸進出の野望
(略)佐竹氏の始祖である源義光は後三年の役のとき左兵衛尉という官職を捨てて陸奥に下り、兄の義家を助けた。義光のそうした振舞いが、京都の当局者に嫌悪されるところとなった。また京都においては兄の義家や義綱の勢威におされ、みずからの力量を発揮することができず、そのために東国に勢力を扶植しようとしたちいわれている。(略)
『今昔物語集』と「十訓抄」には、義光が院の近臣として権勢のあった六条顕季と、東国の荘をめぐって所領争いをしたことが書かれている。その所領は「十訓抄」によれば、常陸国多珂郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。ここはもともと顕季の領地であった。従って顕季に理があり、義光に非があることは明らであったらしい。しかし、一向に白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそかに法皇をうらめしく思っていたのである。ところがある日、顕季が御前に伺候していると、法皇は顕季に対し、「この問題の理非はよくわかっているが、義光はあの庄一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、無法者の武士がなにをするかわからない。だからあの庄は義光に譲ってはどうか」と仰せられた。顕季は涙をのんで仰せにしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書いて与えた。義光は大いに喜び、ただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
それからしばらくたったある夜、顕季が伏見の鳥羽殿から、二、三人の雑色をつれ京に向かったころ、鳥羽の作道のあたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車の前後についてきたので、顕季はおそろしくなって、供の雑色に尋ねさせたころが、夜に供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命によって警衛していると答えた。顕季はいまさらながら、法皇の深いはからいに感謝したというのである。
この説話の信憑性については、問題のあるところだが、義光やその子孫の常陸進出については、常陸の豪族平重幹の子、常陸大掾致幹がかって義光らとともに後三年の役に際して、義家の軍に参加したことや、義光が常陸介となって常陸国に赴任したことお関係が深い。
『永昌記』によると嘉承元年(1106)六月、源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦をしたので、朝廷では、義光および平重幹らの党に対して東国の国司に命じて、これを召進めさせたとあるので、義光は早くも常陸大掾氏と結ぶことによって、常陸の地に進出する野望を実現しようとしていたのである。
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