|
江戸時代の甲斐伝説と民話、遊女八千代が噂 羇旅漫録(瀧沢馬琴)
八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。もちひたわず。板倉止むことを得ず。若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。しかし後八の宮を配流せらる。則ち八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。吉野より高し。
【註】
直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、
ふるゆきもこの山里はこゝろせよ 竹の園生のすゑたわむ世に
万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。 (橋本肥後守経亮話)
【追考】
甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。八の宮甲州にましましけるとき。
なけばきくばきけは都のなつかしき 此里すぎよ山ほとゝぎす
これより杜鵑なかずといふ。(実兄羅文の話)程へて八の宮帰洛したまひぬ。
|
全体表示
[ リスト ]




