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江戸時代の甲斐伝説と民話、角倉了以 一話一言(大田南畝)
慶長十三年京都大仏殿御造営に付大材木牛馬の運送なりがたく、了以光好に命ぜられ、京都加茂川の水を堰分け新川をつけ、右の材木を引上る。よりて十六年より伏見より二条まで高瀬船通行す。十九年また富士川塞りしにより、忰與一玄之に命ぜられ是をひらく。三月より七月に至りて普請なる。同年七月十二日死す。六十一、法名了以、城州嵯峨の二尊院に葬る。其子與一貞順はしめ玄之のち義庵といふ。大阪御陣のとき上方處々の川を切り落としまたは水をせきいれる。
角倉與七光好は宇多源氏の末流吉田意庵法印宗桂が惣領なれども、水理を好み醫師を好まず、弟に家をゆづりのち了以とあらたむ。年月しれず、東照宮のまみえ奉り、慶長八年上意を受け安南国へ通船し、同十年また仰をうけ、丹波国紫殿田村より深津嵯峨大井まで山間三里があいだ川中に大石多ありて往古より通船なりがたきを切ひらき、翌る午年八月より高瀬舟通行す。慶長十二年また命によえり富士川へ高瀬舟を入れ、駿州岩淵まで通船し、十三年また仰により信州諏訪遠州掛川塚まで通船なす。よりて書を給ふ。
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