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初当選を飾るまで 金丸信自伝より
目をつむると、子供のころの情景が浮かんでくる。
白い花をつけた蕎麦(そば)畑。そりゃあ、きれいなもんだね。富士山をバックにしてね。足元には、富士川の上流になる釜無川が流れている。帯麦畑だけではなかったな。
粟(あわ)、稗(ひえ)畑に、桑畑、煙草の畑もあった。それに、スイカ畑だってあった。どれもこれも、腕白坊主にとっては、格好の遊び場だった。スイカ畑にもぐり込んで、仲間とスイカを食う。うまいんだ、これが。トウモロコシ畑にも行った。腹がへっているから食べるというよりも、スリルというか、肝だめしというか、男の付き合いといったところもあった。
しかし、考えてみれば、蕎麦だの乗、稗しかとれないということは、貧しい県だったということなんだ。実際、わたしが子供の頃は、山梨県は貧しかった。なにしろ県の総面積の八割近くが山なんだからな。山に囲まれている。海はない。甲府盆地の周りは、二千メートルから三千メートル級の山だ。
地図をみると、東京都、神奈川県、静岡県、長野県の一都三県に隣接している。だけれども、どこへ行くにも、険しい山越えをしていかなければならない。いまは、舗装された自動車道路が通っているので、それほど不便には感じないが、雪でも降って道路が途絶すると、昔の人の苦労がわかるね。山梨県は、昔から「僻遠の地」だった。
山梨県には、煮且(にがい)という食べ物がある。アワビを醤油で煮たもんなんだが、これだって生のアワビを運んでは腐らし、ある時、たまたま醤油と一緒に運んだところ醤油づけになって、日持ちがした。それじゃあ、煮て運んだらどうか。「僻遠の地」が生んだ生活の知恵なんだ。食べてみると、生とは一味違った、なかなかうまいものだが、まあ、ちょっと悲しい味がするね。
昔から、山梨県、古い時代だから「甲斐の国」というんだが、こういう歌がある。
甲斐人の嫁にはならじ事草し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ
なんとなく、「甲斐の国」の置かれた位置がわかるだろう。日本一の霊峰、富士山を自慢していても、貧しさばかりはどうにもならない。歴史をみても、「甲斐の国」が脚光を浴びたのは、戦国時代、武田信玄公という稀有な武将が登場した時だけなんだ。信玄公が没すると、「甲斐の国」は歴史のひだの中に、没してしまう。落日の一途をたどるんだ。 だから、いまでも山梨県では、武田信玄と呼び捨てにはしない。「信玄公」と敬称をつけて呼ぶんだ。江戸時代になると、「甲斐の国」は、天領と御三家の三脚領になっていて、それぞれ代官所を置いていた。分割統治だな。だから、甲州人には殿様がいない。殿様がいないということは、権力の後楯がないということだ。だから、甲州商人という腕一本でのし上がっていく商人が多く出た。
甲州商人というと、近江商人なんかと並んで、いかにも抜け目ないやり手ということになっている。その虚実はおいても、生き馬の目を抜く江戸で、後楯もなく一旗あげるんだから、努力と工夫は並のものではない。
男一匹、のし上がっていった人材は、私の周りでもたくさんいる。朝日新聞の夕刊に連載されている「新人国記」を読むと、こうした、たくましい甲州人の血がいまも息づいていることを感じるね。
しかし、忘れてはならないことがある。権力の後楯がないから、頼れるのは自らの力だけと、他人を踏み台にした人は、決して成功はしていない。商人にとっては、信用が何よりも大切だ。時には、命をはっても、自分の信用を守ってきたから、男一匹、名を上げることができたんだ。
その甲州人にとって、心の支えになったのが、あの、「人は石垣、人は城」なんだよ。自分の命よりも、人と人とのつながりが大事なんだ。武田信玄公も言っていると、歯を食いしばって生きてきたんだな。
あの「人は石垣、人は城」という、武田節に歌われている文句は、本当はちょっと違うんだ。この歌は、信玄公の五十七ケ条の法度や武田軍団、田中軍団じゃないよ。武田軍団の戦記などを記した「甲陽軍鑑」という有名な軍略書の中に残っている。
人は城 人は石垣 人は掘 情けは味方 あだは敵なり
信玄公の自作の歌だといわれている。信玄という人物は、生涯、甲州四郡のうちに、城郭を構えなかったというんだな。いつも、他国で戦争をしていたから城が必要ではなかったという説もあるが、躑躅ケ崎(つつじがさき)の
館さえ、掘を一重、めぐらしただけだった。人こそ、城であり、石垣であり、掘なんだという信念があったんだろうね。戦国大名というのは、強くなくちゃならん。すぐれた武将でなければ、城がなければ、あっというまに、皆殺しにされてしまう。しかし、それだけじゃつとまらない。すぐれた武将であると同時に、すぐれた政治家でなくちゃ、国を治めていくことが出来ない。そういう中で、信玄公は超一流。恐らく、その当時、織田信長よりも徳川家康よりも誰よりも強かったんじゃないかい。
そのうち、甲州法度の制定、家臣団の統卒、農民対策、商工業政策、税制や度量衡別の統一など、政治家としても大変な手腕をみせたんだな。その信玄公が、人は城、人は石垣、人は掘というから、みんなが納得するんじゃない。
わたしが、政治家として、人と人とのつながりを最も大切にするのは、つきつめると、信玄公の、この精神によるところが大きいじゃないか、と思うね。
山梨県を歩いてみるとわかるが、川が多い。昔は、しよつちゅう、水害にあった。その中で、釜無川に「信玄堤」というところがある。信玄公が、釜無川の氾濫を防ぐために、大規模な築堤工事をした。堅固な堤防を築いただけでなく、領民を移して、諸役免除の特権を与えて、埋防の保全と防水の任にあたらせた。アフターケアをやらせたんだな。堤防だって、普通の一直線の擬防じゃない。雁行状に重複した、いわゆる霞堤というものだ。急に、大出水しても、堤防が決壊しない。治水技術としては、当時では最も進んでいた。いまでも参考になるよ。四百年も前のことがね。
わたしが、初めて衆議院に立候補した時に、釜無川右岸の土地改良の実現を公約した。わたしの地元の要望も強かったし、子供の頃から、ここを開拓すれば、どんなにいいだろうと思っていたから、当然の公約だったが、やっぱり、釜無川を治めるものは、という信玄公じゃないが、気負ったものも、少しはあったと思うよ。何しろ、当時は、若いんだから。
この「甲陽軍鑑」というのは、なかなか味のある軍略をいくつも残しているよ。たとえば、「甲陽軍鑑」には、「信玄公御一代敵合の作法三ケ条」というのがある。合戦にあたっての武将の心がけを述べたものだが、「信玄公おおせられるは、弓矢の儀、勝負の事、十分空ハ分七分のかば十分の勝なり。中にも大合戦は、ことさら右の通りが肝要なり、子細は、八分の勝は危うし、九分十分の勝は、味方大負の下地なり」とある。
ま、いまの言葉に直せば、十のものならば六分か七分、敵を破れば、それで十分な勝利だといぅことだな。大合戦になればなるほど、そう考えなくちゃいかん。九分、十分の勝利は、味方が大敗を喫する原因となるということだな。
とにかく殺し合いに明け暮れた、戦国の世の実戦的な知恵なんだと思う。
わたしも、政治家として、全部が全部、自民党の意見を通すのは愚の骨頂だと思っている。いくら絶対多数を担っているからといって、全部、自民党の思い通りになるなら、国民が野党に投じた票は何の意味がある。それじゃあ、独裁政治じゃないか。野党の意見をきいて、直すべきところは直すというのが政治じゃないか。わたしは建設委員長に就任した時、それまで何国会も積み残しになっていた法案を十五件全部、成立させたことがある。とにかく「理事懇を開いて、みんなの意見をきこうじゃないか」といって、片っ端から野党の意見をきいた。もっともだと思う意見もある。言うだけ言わせておいて、「さあ、この法案は自民党と社会党の中間をとってこうしよう」ってね、どんどん修正させた。
野党の意見を聞くなんて、という批判もあったが、政府が提案した法案がずるずる成立もしない、政府や党がやりたい政策が出来ない、それとどっちがいい。多少のことは呑んでも、法案を成立させることが先決だよ。
そんな風だから、わたしは、時代も違うし、思想も違うが、合戦の要諦として、「六、七分の勝ち」というのはわかる。国対委員長なんかは、まさに与野党合戦の前線指挿官だからなあ。だから、わたしが政治家としてここまできたのは、大事にした人達の暖かい思いやりもある。が、わたしが子供の頃から慣れ親しんできた風土から学んだことが大きかった。自然を嫌ったりはしなかった。素っ裸で、自然の中に溶け込み、厳しい風土に鍛えられたこと
が、この政治の赤じゅうたんの上で、わたしの針路をちゃんと示してくれているね。
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