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英雄伝説に深いゆかりの酒折宮(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
三世紀から四世紀前半にかけての甲斐国については、酒折宮にまつわる「古事記」「日本書紀」の目本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承がある。この物語は、大和朝廷の勢力が中央から地方へと拡大されていった過程のなかで、古代甲斐の姿をさぐる資料として貴重な示唆をあたえてくれる。故津田左右吉氏は、日本武尊(古事記には倭建命)の伝承は、地方勢力が大和朝廷の征服によってその配下に属するにいたった事実を、一人の英雄(実在の人物として
ではなく)の行為に仮託してつくられたものであろうといっている。
現存酒折宮は、甲府市酒折町にあるが、旧地はそれより数百メートル北の古天神の場所だと言い伝えられている。県下には日本武尊の遣跡とよばれるものは多く、二〇カ所におよぶという。酒折官については、記紀(古事記と目本書紀)には、景行天皇の皇子日木武尊が東征の帰路に立寄り、火たきの老人と歌の問答をかわしたという伝説があり、ここに宿泊された旧跡と伝えられて日本武尊を祀っている。尊は熊襲征伐から帰ると、休むいとまもたく東征の途につき、古事記には、蝦夷を平定して、足柄の坂にのぼり、なき妃弟橘比売命をしのんで「吾妻はや」といったのが、東の国の名のおこりであるという。
日本書紀には、
甲斐国に致りて酒折の宮に居します時に挙燭して進食す。是の夜歌を以て侍者に問いて日く、
新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
諸々の侍者え答え言さず時に乗燭者有り(記には御火焼の老人とあり)、尊の歌の末に続けて日さく、
日日並べて夜には九夜日には十日を
とうたいき、即ち乗燭人の聡(さとり)を誉めたまいて敦く賞す(記には「是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造を給いき」とある)。このように歌の間答をされたことから、後世、連歌の発祥地として有名な地となった。昭和の初期、甲府の酒折を否定して若彦路をめぐる花鳥山の一本杉、長井の天神杜などが正しいとする論議もあった。
古事記や日本書紀の記述の真偽や両書の相違は別として、記紀に記録されている尊の東征や「宋書倭国伝」のなかの倭王武の上表文中にある「東は毛人を征すること五十五国」等の記事の考察から、甲斐国もこの時期に、上表文のなかの五十五国の一国として、大和朝廷に服属するにいたったものと考えられる。酒折宮境内には山県大弐の「酒折詞碑」と本居宣長選文・平田篤胤書の「酒折宮寿詞」の石碑がある。
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