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いまだ謎を秘める国府のありか(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
「大化の改新」後、地方行政区画で甲斐は東海道の一国として、現在の山梨県とほぼ同じような範囲が定められ、国司が赴任して政務をとるようになった。平安時代の初期には、甲斐国の等級は上国となっているので、国司の役人も規定に従えば、守・介・豫・目各一名と史生三人であったことになる。
国司名が記録上にあらわれるのは、「続日本紀」に養老三年(七一九)はじめて按察使を置き、遠江守大伴宿弥山守が駿河・伊豆・甲斐三国を管するとあり、同書天平三年一二月二一日の条に
「天下に大赦し、甲斐守田辺広足に恩賞あり、また甲斐国は今年の庸、馬を出」た郡は調庸とも免除す」との記事がある。甲斐に介が置かれたのは貞観七年(八六五)のことであるが、奈良時代の末には坂上田村麻呂の父刈田麻呂が甲斐守となり、平安時代には「古今集」の歌人として有名な凡河内躬恒が甲斐国の少目となった記録がみられる。また中央政府の命によって国司が甲斐国支配をすすめた記録は多いが、国司の政庁である甲斐国府の位置については諸説があって一定しない。
平安時代中期成立の「和名抄」に「国府は八代郡に在り、行程は上二五日、下一三日」とあり、京都との日程に上下の差がついているのは、上のときは調・庸をたずさえるからである。「八代郡」は現在の東八代郡御坂町の国衙跡であると推定されているが、国庁の建物跡などは何ものこされていない。また東山梨郡春日居町国府の初期国府説がある。ここには寺本廃寺跡、守常明神、山梨岡や条里制跡などがあり、古くからひらけた地域と考えられる。
寺本廃寺跡には、建物の礎石と推測される巨石があり、国分寺か国分尼寺跡との見解を示す人もいる。また、付近の条里制赫の方位が、甲斐の他地方の方位が六度から一二度東偏しているのに対して、地割りが正東正南北の方位をとっていることは、甲斐国府があった有力な根拠とされている。
また、春日思町国府が初期の国府であったが、笛吹川の氾濫のため御坂町国衙に移転したのであるという説も有力になっている。また一宮町国分には国分寺跡があり、すぐ近くの東原に国分尼寺跡があることと、付近には条坊の跡を示す字名がのこっていることからも、国庁の跡と考えられるとして、春日居町国府〜一宮町国分〜御坂町国衙の三転説を唱える人もある。
甲斐路の駅は山中湖底に沈んだ?
律令時代には中央と地方とを緊密にむすびつげるため、都を中心に七道諸国へ官道が整備され、約一六キロごとうまや
に駅家を設ける駅制がしかれ、公用をおびた役人と五位以上の貴族の私的な旅行に利用された。資格の証として駅鈴や駅符をうけ、この施設の利用が許されていた。駅には駅長と駅子が、駅馬を飼育して常置されること定められ、京や大宰府など大路には二〇疋、東海道や東山道など中路の駅には一〇疋、その他小路には五疋の馬が用意されていた。
甲斐の駅路については、「延喜式」に「甲斐国駅馬、水市・河口・加吉各五疋」とみえている。したがって甲斐路は小路であり、主な駅路にあたる郡には伝馬を備えることになっていたが、甲斐には伝馬の備えはなかった。
東海道本路から駿河国横走駅(御殿場市)にいたり、ここから分れて西北にすすんで甲斐国境加古坂(籠坂峠)をこえて甲斐に入った。最初の駅の「水市」の位置については、加古坂の北麓で山中湖岸にあったがのちに山中湖の湖底に沈んだとの説があり、駅跡の発見に本格的な調査がすすめられたことがある。しかしこの説に対して、駅名は甲斐国府に近い側から記載されているので、水市駅は現在の御坂町黒駒付近(一官町市之蔵説もある)にあったとみるのが妥当だとする説がある。もし湖底調査が成功して、湖底に沈んでいた遣物でも発見されたらじつに興味深いことである。
延喜式に記された「加吉」は、おそらく加古の誤りであろうといわれている。つぎの「河口」は現在の河口湖町河口の湖岸にあって(鳴沢村ひばりが丘付近説もある)、駅馬飼育のための水草にめぐまれた所に位置していた。駅路は河口よりも北へすすんで甲斐の御坂(御坂峠)をこえ、国中地方へ入った。甲斐路がどこを通って国府へ達したか正確なことはわからないが、甲斐に入るには籠坂・御坂の二つのけわしい峠をこえなければならなかった。御坂の地名は、ここに神が住み、神のたたりによって旅人を苦しめたとする古代人の宗教観から出たといわれている。
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