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上杉禅秀の乱と甲斐の国 一、上杉禅秀の乱
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成4年(一部加筆)
上杉禅秀の乱とは、前関東管領上杉氏憲(禅秀)が、鎌倉公方足利持氏と現関東管領上杉憲基の体制を不満とし、応永二三―二四年にかけて惹き起こした反乱をいう。
これより先、持氏・憲基らと不和を生じて関東管領を辞任した氏憲は、持氏と不和の叔父足利満隆を味方とし、氏憲の女婿千葉兼胤・岩松満純・那須賀之、氏憲の岳父武田信満らを誘い、応永二三年(一四一六)一〇月二日、鎌倉の持氏、憲基を急襲した。二人は身を以て脱れ、持氏は駿河に、憲基は越後にそれぞれ退いた。
氏憲党は持氏らの虚に乗じて鎌倉を占領し、満隆は鎌倉公方、氏憲は関東管領と称し、一時政権を掌握した。
持氏が急を京都に報ずると、幕府は持氏援助の議を決し、一二月、一色詮光を大将とし、駿河の今川範政、越後の上杉房方をはじめ、東国の諸将に氏憲党の討伐を命じた。今川勢は箱根を越えて国府津を占領し、鎌倉に迫った。越・上勢も南下して武蔵から鎌倉を衝く態勢を示した。氏憲も二四年正月九日、武蔵世谷原で越・上勢を破ったが、時既に遅く、鎌倉は幕府軍の猛攻撃で陥落寸前となり、万事休した氏憲は翌一〇日、雪之下宝性院において一族郎等九九人と自刃して果てた。
鎌倉府を回復した持氏は、氏憲残党の巨頭武田信満を急襲し、破れた信満は二月六日木賊山に逃れて自刃した。
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