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上杉禅秀の乱と甲斐の国 二、乱後の甲斐の国
 2 武田守護家
 組渦は氏憲の舅として、二男組長と共にこれに応じたが、万一を考えて嫡男信重と実弟穴山渦巻には参戦させなかった。’
 氏憲残党に対する持氏のきびしい追求に、信重
春は高野山に逃れて出家した。父と共に参戦した信長も行方を晦まし、甲州は逸見党の独舞台となった。これを憂えた幕府は、応永二五年(1418)さきに高野山に隠れ出家した信春に還俗を命じ、武田陸奥守信元と名のらせて甲斐守護に補し、信濃守護小笠原政康の保護のもと入国させた。
 信春は入国したが逸見氏ら国人の反抗に苦しみ、守護代の設置を幕府に請うた結果、政康の一族跡部駿河守・上野介が補任された。
 一時姿を消した信長は、やがて豪傑加藤入道梵玄を従えて帰国、随所に逸見氏を破った。首長は智謀百出の名将で、応永二九〜二三年(1422〜6)の間、持氏の討手を尻目に逸見氏を破り、滅亡寸前に追い込んだ。
 三三年、持氏方の大軍が大月に来攻した時、信長は敗れ降って鎌倉府に出仕し、手厚い処遇を受けた。
 3 荒川の戦い
 甲斐の守護武田信元の嗣伊豆千代は、信長の千で幼弱なため、信元亡き後は信長が跡部守護代と共に助けていた。しかし信長が鎌倉に出仕すると、跡部氏は離反した。当時峡北に輪宝一揆・日一揆の二武士団が対立し、前者は跡部氏、後者は武田氏と結んで枯抗した。
 永享五年(1433)四月二九日、さきに鎌倉から帰国した信長を盟主とし、武川衆を中心に結束して塩川畔の「日ノ出ノ砦」に拠った日一揆は、敵のために荒川河原に誘い出されて敗れ、信長は伊豆千代と駿河に逃れた。
 持氏は首長の追討を幕府に迫ったが肯かれず、逆に幕府は首長に遠江蒲御厨千貫の地を扶助してその活動を助けた。
 
三 結び
 この乱は、武田守護家未曾有の危機で、乱後、武田信重は高野山に遁れ、守護に補されたが、強勢な敵の妨害で国外流浪二一年、永享一〇年(1438)漸く帰国して守護の座についた。しかも守護代跡部氏の勢力はなお衰えず、二七年後の寛正六年(1465)に至り、信重の孫信昌が辛くも滅ぼしたのであった。〔佐藤八郎氏著〕
 

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