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白州町歴史講座 甲斐源氏の勃興 源義光・義清・清光(白州町誌)
(【註】この項には著者の歴史観が挿入されていて、不確かな個所がある)
頼義の三男が義光である。義光は天幕五年(一〇五七)生れで、近江国園城寺の新羅明神の社前で元服したので新羅三郎と名のった。やがて左兵衛尉に任ぜられたが、後三年の役が起るや官を辞して奥州に下り、兄八幡太郎義家を援けて乱を平定した。その功により刑部丞に任ぜられ、ついで常陸介となり、やがて甲斐守に任ぜられた。
義光は、広大な火山裾野をもち古代から三御牧があり未開拓地の多い峡北に注目していた。そのころすでに逸見郷は庄園化して逸見・熱邦・多摩の諸庄となっていた。義光はこれらの庄に私牧を獲得し、広大な原野を在国とするとともに、逸見郷に大八幡圧を起した。この地域は八ケ岳南西山麓で、現在の長坂・小淵沢・高根・大泉にわたる地域で山麓に豊富な湧水があるため、早くから田畑も発達し馬と食糧の豊富な地域であった。
甲斐国志古跡部に「相伝フ新羅三郎義光ノ城蹟ナリト云フ、村西ノ山上ニ旧塁三所アリ云々」とあり、多摩庄の若神子に居館を構え、要害城として若神子城(大城)を築いたものと思われる。この付近にある八幡宮は、この甲斐源氏によって勧請されたものと思われ、大八田の八幡山にある八幡宮、上黒沢の八幡宮、村山西割の八幡宮などは義光とその子義清によって遷宮された由緒を伝えている。
義光は甲斐守の任期を終えて近江に帰ったが、再び常陸に移っていった。常陸は甲斐よりも造かに豊かな土地であったから義光はその子たちを常陸に土着させようと考え、長男義業の妻に常陸の豪族吉田清幹の女を迎えて懇親を結び、義業の子昌義を久慈郡佐竹郷に、ややおくれて三男義清を那賀郡武田郷に拠らしめた。前者が清和源氏佐竹氏の起りである。
義清は武田郷に拠って武田冠者と称した。その後義光は近江に帰り、大治二年(一一二七)十月二十日、八二歳の生涯を終えた。時に義清五三蔵、孫清光も一八歳であった。義光の死を知った吉田清幹らは一斉に反武田の旗をひるがえした。もともと武田郷周辺は常陸国三の官吉田神社の神領で、常陸大橡の一族である吉田清幹・盛幹父子の支配地であった。そこへ義清が割り込み、その子清光までが若さにまかせて横車を押すというわけで、吉田清幹父子と対立していた。しかし義光存命中は隠忍していたが、義光の死とともに反逆にでたのである。
大治五年、常陸の国司が清光を濫行のかどで告発した。この告発は朝廷で受理され、審理の結果、翌天承元年に甲斐国市河庄に配流ときまった。時義清五七歳、清光二一歳。
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