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白州町歴史講座 甲斐源氏の勃興 源義清・清光・信義・光長(白州町誌)
(【註】この項には著者の歴史観が挿入されていて、不確かな個所がある)
清光には大治三年生れの光長、信義の二子があった。義清・清光父子は市河庄に土着し、平塩岡に居館を構えたが、やがて祖先甲斐守頼信以来庄園が経営されてきた峡北地方に拠点を移し、義清は逸見冠者刑部三郎、清光は逸見黒源太と名のった。義清は清光のよき助言者として活躍し、父子は在地の豪族たちと友好を結び或は懐柔し、時には威圧して着々と所領を拡げ、入国して十年を経たころには峡北一帯を従えた。保延六年(二四〇)清光は光長・信義は二子の元服式を挙げた。清光は逸見神社(大八幡の八幡宮)で、信義は武田八幡宮で源為義を烏帽子親と迎いで、光長は逸見太郎、信義は武田太郎と名のり、ともに為義の祝福を受けた。
義清は晩年巨摩郡稲積圧西条(昭和町)の地に隠居して、久安五年(一一四九)七月二十三日、七五歳で没した。西条には義清の墓といわれる古墳があり、義清神社がまつられている。谷戸城は清光の居城で、遠くから見ると茶白に似ているところから茶臼山とも呼ばれ、孤立した丘陵で眺望がよく逸見一帯を望むことができる。東鑑には逸見山とあって清光以下数代逸見氏がここを居城としたとある。清光は仁安三年(一一六八)この谷戸城において五九歳の生涯を閉じた。その墓はいま大八田の清光寺にある。
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