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白州町歴史講座 武田氏の興隆 清光の子供たち(白州町誌)
(【註】この項には著者の歴史観が挿入されていて、不確かな個所がある)
清光
―光長 (逸見太郎 上総介)
−信義 (武田太郎 駿河守護、光長と同日生)
−遠光 (加賀美二郎 信濃守)
−義定 (安田三郎 遠江守)
−清隆 (平井四郎)
−長義 (河内五郎 対島守護)
―厳尊 (骨疎禅師)
―義行 (奈古十郎 八条院蔵人)
−義成 (浅利与一)
−信清 (八代冠者)
−義氏 (利見与一)
−道光(修理亮)
−光賢 (修理亮)
清光の子は系譜の通りで、加賀美次郎遠光、安田三郎義定(二人は猶子という)をはじめ十二、三人に及び峡西、峡東地方に進出し勢力をはっていた。
信義の嫡男忠頼は武略と統帥に長じ、穂坂、志麻、一条、稲積の諸庄を経略して一条庄の一条小山(今の舞鶴城) に居館を構え一条次郎と称した。三男板垣兼信(板垣三郎)、四男逸見有義、五男石禾(石和)信光とも傑出した武将であったから信義の勢威は強大なものであった。
白州町歴史講座 武田氏の興隆 平家討伐へ(白州町誌)
(【註】この項には著者の歴史観が挿入されていて、不確かな個所がある)
治承四年 (一一八〇)四月九日、高倉宮以仁王の発した平家追討の令旨は東海・東山・北陸三道諸国の源氏諸将に伝達された。伊豆蛭が小島の源頼朝のもとへは源行家によって伝えられ、そのあと家行は甲斐に入り武田・安田の諸将に令旨を伝えた。この時信義は五三蔵、義定は四七歳であった。
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