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白州町歴史講座 源頼朝蜂起 甲斐源氏参戦 黄瀬川の戦い(白州町誌)
(【註】この項には著者の歴史観が挿入されていて、不確かな個所がある)
頼朝は令旨を受け、八月十七日伊豆国の目代関兼隆を血祭りに挙げたが、二十三日相模石橋山の戦で大庭景親らの軍に敗れ、幸い敵将梶原景時に助けられて安房に逃れた。令旨を受けて着々準備を調えていた信義は、九月十日、嫡男忠頼とともに信州伊那郡大田切城を攻めて平家方の菅冠者を滅した。九月十四日信義らは甲斐に帰り逸見山(谷戸城)に宿営した。
このとき翌十五日北条時政が訪れ、頼朝への協力を要請した。信義は即答を避け、逸見山を出て信義の五男信光の拠る石禾(和)御厨に到り宿営した。その夜頼朝の使者土星宗遠が来着、情勢が好転して安房、上総、下総三国の武士がことごとく頼朝に属し、いま上野、下野、武蔵の精兵を従えて駿河に向け出馬の準備中である。甲斐源氏も急ぎ駿河の黄瀬川まで来会されたいと申し入れ、甲斐源氏の決断を促した。
熟議のうえ甲斐源氏も瞭朝に協力し駿河に参陣することに決した。武田信義は四人の子息(忠頼、兼信、有義、信光)、安田義定、逸見光長、河内長義らを率い、十月十三日に甲斐を出発して駿河に向った。路を若彦路にとり南進した甲斐源氏一党は、鉢田の辺(朝霧高原)で駿河国日代橘遠茂の率いる大軍と遭遇したが力戦の末これを破り、遠茂を捕虜とした。十月十八日、頼朝の黄瀬川の陣に着く、越えて二十日頼朝は陣を富士川の東岸に近い賀島に進めた。その南は富士沼である。平家の総帥平維盛は副将平忠度、同平忠括らと富士川の西岸に陣していたのである。
武田信義は夜が更けると兵をひそかに平氏の陣の後方に回らせて襲おぅとした。このとき富士沼に眠れる水鳥が驚いていっせいに群り立ったので、敵の夜襲と信じた平氏の陣営は騒動して収拾がつかなくなった。平軍の将平忠清は機を誤ると退路を絶たれる恐れがあるとして退却すべしと主張し、維盛以下これに従い、夜中に陣を撤して京都に向って引き上げた。
二十一日、頼朝は甲斐源氏の功を賞し、武田信義を駿河の守護、安田義足を遠江の守護に任命した。駿遠両国は源氏勢力の最前線で、平氏に対抗するには強力な勢力を必要としていたのである。二十三日、頼朝は緒戦以来の功労者二五人を行賞したが、勲功第一は北条時政で、第二が武田信義、第三が安田義定であった。その後信義、義走ら甲斐源氏の将兵は京に上り源平合戦に参戦する。一の谷の戦においては武田有義、板垣兼信らは大手大将軍範頼に属し、安田義定は拐手大将軍源九郎義経に属して大功を挙げ、甲斐源氏の軍団は天下無双と思われた。
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