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白州町歴史講座 武田氏の盛衰(鎌倉から室町へ)(白州町誌)
(【註】この項には著者の歴史観が挿入されていて、不確かな個所がある)
平家を滅ぼし、鎌倉幕府の創建に甲斐源氏が果した業績は大きかった。だが甲斐源氏が強大な兵力を擁し、駿遠一帯にも勢力を拡大したことについて頼朝は恐怖を感じ、これを警戒し圧迫してくるのである。頼朝は武田一門に謀叛の動きありとして信義に圧迫を加えてきた。その疑惑に対し信義は誓書を提出して誤解を解いてもらったが、その子一条忠頼は頼朝に招かれ鎌倉で謀殺された。やがて信義も駿河守護を解かれ、文治二年(一一八六)三月九日、悲運のうちに五九歳で世を去った。
信義
−忠板 (一条二郎)
−兼信 (板垣三郎)
−有義 (武田太郎)
―信光(石禾五郎、伊豆守、安芸国守護)
安田義足も遠江守護を解かれ、建久五年八月嫡男義資の些細な問題で、安田氏に反逆の事ありとして梶原景時を将とする幕府軍が甲斐へ攻め込み安田軍と戦ったが、義定は藤木の菩提寺放光寺で自刃して果てた。時に年六一歳であった。さらに一条忠頼の弟板垣兼信も梶原の手の者に謀殺された。その弟有義は頼朝の死後梶原と組み、後任の将軍をめぐって画策したが発覚して梶原一族が滅亡した正治二年(一二〇〇)正月行方知れずとなった。
白州町歴史講座 甲斐源氏の生き残り 石和五郎信光 小笠原長清(白州町誌)
信義の同族で生き残ったのは、信義の末子石和五郎信光であった。武田の惣領職についた信光は鎌倉幕府に忠誠を尽し信頼が厚かった。源実朝暗殺を機に将軍政子と執権北条義時が幕府の実権を握った。朝廷は源氏幕府が断絶を機に朝権の回復をはかろうとして承久の乱が起った。
承久三年(一二二一)六月、この乱は北灸軍の圧勝で終り、幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇ら三上皇を遠流に処し、討幕に加わった公卿・武士団を処断した。このとき東山道大将軍として五万余騎を率えて出兵したのが石和信光と小笠原長清であった。信光はその軍功によって安芸の守護に任ぜられ、長清は阿波の守護に任ぜられた。その後信光の子孫が代々石和(川田)の館に住み甲斐の守護となっている。
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