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白州の歴史講座 馬場美濃守信房の事績 白州町誌
智勇兼備、戦略にたけ、築城の縄張りにもくわしく、主要なる合戦には必ず参加して功を挙げ、四十余年の歴戦に身に一創もこうむらないという。
享禄四年(一五三一)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政は、十七歳にして殊勲の功をなした。
それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政(信房)の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操典を仕込んだという。
大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。その勇に誇り悪行つのったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清が諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。
天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職となる。教来石民部景改も武川衆の一隊長としてその幕下に加わった。
天文十一年瀬沢の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原城攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで
馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将となる。
天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠) の合戦に参加、
天文十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、
天文十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。
天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶磨山に陣す(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動なりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)。
この年八月甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春日弾正の五士大将をもつて木骨を攻略し義昌を降す。
永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景故に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信春と称した(『甲陽軍鑑』)。
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