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白州の歴史講座 馬場美濃守信房 長篠の戦い 設楽ケ原 白州町誌
五月十八日、徳川家康は長篠城西方設楽原高松山に、識田信長は極楽寺山に布陣、勝頼は医王寺山の本陣より寒狭川を渡ってこれと対陣した。徳川・識田連合軍は連吾川の上流に沿って二キロメートルにわたり三重に木柵を構え、人馬の突撃を避け、これに三千挺の堅固な鉄砲陣地を築いた。
五月二十二日未明、鳶巣山で戦端が開かれ、武田軍と識田・徳川連合軍との大激戦が設楽ケ原で展開された。馬場隊は二上山を駆け下りて右翼の佐久間信盛隊と激突、またたく問に佐久間隊を追い散らして敵方が築いた柵内に追い込んで引揚げた。さらに内藤・山県隊も徳川勢を敵方の柵内に追い込んで敗走させた。馬場美濃守は、味方の先鋒隊は勝ったと見て使者を勝頼のもとへ送り「わが軍一度勝ち弓矢の面目既に立ったが、瞭わくば本陣はこれをもつて退去せられたし、あとはわれわれが必ず守り抜きます」と進言した。ところが長坂長閑が傍にいて「勝って退くものはどこにもおらんぞ」と使者を叱りつけて帰した。
数刻後、識田方の三千挺の鉄砲の威力が発揮され、武田軍は三段構えに撃ってくる敵の砲火を浴びて総崩れとなった。
真田信綱、土屋昌次、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景、甘利信康、武田信実、三枝守友など武田の重臣多く討死し、馬場美濃・土屋惣蔵らが旗本の兵とともに奮戦し、ようやく勝頼を退去せしめた。「馬場美濃守は屋形に二町計り引下り、敵兵の慕ふを待請け、勝頼の御無事を見届け、馬篠の橋場にて取って返し、高き所に馬を乗上げ、
是は六孫王経基の嫡孫摂津守頼光より四代の孫、源三位頼政の後練馬場美濃守信房という者なり、討って高名にせよ
と、如何にも尋常に断りけるに、その時敵兵十騎計り四方より鎗付くるに、終に刀に手をも懸けず、六十二歳にて討死 長篠の小字「西」一という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、それ以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。
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