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白州町の歴史講座 曲淵書景、勝左衛門(庄左衛門)
『武田三代軍記』
・天文十七年二月上田原の合戦には板垣信形(信方)の軍に属し「甲府勢には曲淵正左衛門、三科肥前守、広瀬郷左衛門など一騎当千の勇士一番に鎗を入れて戦えば」とあり、
・元亀四年(天正元年)二月野田城を陥れ、吉田城を攻略する項に「味方には曲淵庄左衛門、長坂十左衛門、辻弥兵衛、三科肥前守…我も我もと馬を乗り放って鎗追取り〈人に先を越されじと塀際に近づく」とあって余程の勇者で
あったようである。
・武田信虎および信玄・勝頼につかえ、甲斐国武川谷に任し、天正十年三月勝梶没落ののち剃髪して玄長と号す。
・ときに織田右府(信長)より武田家の士を扶助することを禁ぜらるるといへども、東照宮ひそかに武川の者どもに月俸をたまひ遠江国桐山の辺に居らしめらる。吉景もその列にあり。六月右府ことあるののち北条氏政氏直等計策を設け武川のものを味方に招くといへどもみなこれに応ぜず
・七月東照宮甲斐国に御発向のとき御磨下に列し、武川のものと共に御先手に加はり、信濃国の境小沼の小屋を攻め破る。やがて新府に御着陣のとき吉景・正吉父子ともに拝謁し本領をたまふ。八月六日北条家と若神子において御対陣のとき敵近くよせきたるを御覧ありて、誰にても斥候して鉄砲をうちかけよと仰ありしかどみな猶予して進まず、よりて書景参れとの台命により三男彦助正吉とともに軽卒を率いて馳せむかい、傲の様をうかがひ山上強右衛門某と詞をかわし相戦うさまを台覧ありて、武功の者の振舞皆見よと仰あり、このときの上意に、吉景老たりといへども武辺のありさますこやかなること比額なし、正吉も父に劣らぬ若者なりと御感をこうむり御判物をたまう。
・天正十七年重恩の地をたまひ、
・天正十八年八月関東にいらせたまうとき相模国の内において釆地五百石をたまう。
・文禄三年十一月二十三日死す、年七十六、法名玄長、相模国足柄郡増色村の玄長寺に葬る。
(寛政重修諸家譜による)
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