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白州町の歴史講座 曲淵吉清(縫左衛門、筑後)・吉重
【甲斐国志】
家忠日記ニ北条氏直若神子ニ張陣ス、曲淵勝左衛門父子斥候ニ出テ功アリ御感状賜ハル
吉景死スル時麒ニ困リテ遣領五百石ヲバ次男七左衛門、助左衛門、勘左衛門三人二分ケ賜ハル
【甲斐国志】
慶長四亥年十二月、縫殿左衛門吉清始メテ拝シ、平岩主計頭ニ属シ、同六年本州ニテ釆地八拾石給フト云フ、吉清ハ清泰寺(現白州町花水)ノ位牌ニ風仙宗徹居士、元和五末九月朔日没ス」
曲淵市郎右衛門ノ由緒書ニ吉清後筑後卜称ス、助之丞書重ノ父ナリ、父子慶長中甲府勤番ヲ勤ム
曲淵吉重
【甲斐国志】
助之丞ハ本州ノ御代官ヲ役ス、文書等今伝ル所アリ、慶長郷村帳二百二拾六石七斗四升片嵐村曲淵助之丞、清春寺ニ嘉獄宗英居士、寛文八申十二月十四日没ス」
青木尾張守の女を妻とし、清蔵、助之丞、雨宮権兵衛(雨宮勘兵衛の姉を妻とす)の三男子があった。
【寛政重修諸家譜】
吉景の長男、父とともに甲斐国武川谷にあり、天正十年より東照宮につかえたてまつり月俸をたまい、十七年釆地をたまう。のち相模国において釆地二百二十石余をたまう。
慶長五年信濃国上田城を攻めたまうとき台徳院(秀忠)殿にしたがいたてまつり、大久保相模守忠隣が手に属し、のち相模国の釆地を旧領たる甲斐国にうつされ、武川津金の者とともに甲府城を守衛す。
其の後駿河大言納忠長卿に附属せらる。元和五年九月朔日死す、年七十五、法名宗徹、片嵐村清春寺に葬る
曲淵筑後吉清、助之丞吉重父子は甲府城番時代武川十二騎として城番に勤務したのである。
曲淵正吉、彦助、勝左衛門
武田勝頼につかえ、天正十年父吉景とともに東照宮の御磨下に属し月俸をたまい、八月六日甲斐国若神子において父吉景とともに斥候におもむきて戦功あり、この月諏訪安芸守頼忠にしたがいたてまつらずして籠城せしかば、大久保七郎右衛門忠世、柴田七九郎康忠仰をうけてかの地にむかう、このとき正吉武川の士とともに嚮導となりてかの城を攻む、城主頼忠偽りて城を渡さんとこう。両将信じてすみやかに軍を収めんとす、正吉とどめていほく、城中の旗色を察するに戦いをふくむに似たり味方くりひきにしてこれにそなへんといさめしかども、敵の小勢をあなどりおもいおもいにひきとりしかば、実のごとく城中より兵を出してこれを追うこと急なり、正吉武川のものとかへしあわせ乙骨において城兵をうちやぶる。これによりて惣軍もとのごとく備を整う。十二月七日、平井名取において本領及び加恩の地をあわせ五十貫文の地宛行はるべき旨の御
朱印を下さる。
十三年八月、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉等に属し真田昌幸がこもる信濃国上田城を攻め、すでに囲をとかんとせしとき城兵跡を追い討ちて出しかば、正吉武川のものとおなじく殿して功ありしにより一紙の御書をたまい、十七年釆地を加へ賜はり、関東御入国のとき武蔵国鉢形領において釆地百五十石をたまう。文禄二年父吉景病篤きにのぞみ、遺跡を正吉に譲らんとすれど、正吉は別に釆地をたまうにより辞してうけわかち与える。
慶長五年関ケ原の役にしたがいたてまつり、九年三月三日武蔵国のうちにおいて釆地八十石を加へられ、すべて二百三十石を知行す。のち大阪両役に本多正信が手に属してしたがいたてまつり、元和二年致任し、寛永十二年十一月二十八日死す、年七十六、法名宗奨、妻は折井淡路守次昌が女(寛政垂修諸家譜による)。
【甲斐国志】
武川衆にして天正二十年(文禄元年)家康関東移封に際し、武蔵国鉢形にいたる。慶長八年家康征夷大将軍となり江戸幕府を開くにあたり、第九子徳川義直が甲府城主となり平岩親書が城代となった。武川衆はそれとともに慶長九年旧地武川に復帰し「武川衆御重恩之覚」として、それぞれ釆地を賜わった。その武川衆十四人の一人が曲淵勝左衛門(庄左衛門)正吉であると記している。
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