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【柳沢吉保の祖父 信俊】吉保佞臣説の拠り所(五味康祐氏著 一部加筆)
柳沢出羽守(のち美濃の守)吉保を、五代将軍綱吉の寵愛に取り入った侯臣とみなす説は、古くは元禄年間(一六八八〜一七〇四)まだ吉保の存命中からあった。
吉保は幼名を弥太郎といって、もと武田信玄および勝頼に仕えた兵部丞信俊というものの孫になる。信俊は長篠
の合戦に勝頼の麿下にあって、しばしば徳川勢を悩ます軍功を立てたほどの武士だから、むろん三河以来の旗本ではなく、徳川には敵対したものだ。勝頼滅亡後、信俊は甲斐国(山梨県)巨摩郡柳沢村に住んだので、柳沢の姓を名のるようになった(武田家に仕えたころは、青木姓)。
家康が北条氏直と争った時、北条勢を襲って首二級を討ち取った功で、信俊ははじめて家康に拝謁をゆるされ、七十二貫八百文の地を賜わってその麾下に属したのである。以来、数度の合戦に功を立て、慶長五年(一六〇〇)、関ケ原の役には中山道を征し秀忠に供奉して信州上田を発った。そうしたことから、采地百六十石を給される身となった。
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