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【柳沢吉保生誕】吉保佞臣説の拠り所(五味康祐氏著 一部加筆)
 吉保は、そんな安息の子として万治元年(一六五八)十二月に生まれた。妾腹の子という。十六歳で元服し、延宝三年(一六七五)、十八歳のとき、隠居した父の家督を継いだが、むろん知行は五百三十石。綱吉の側小姓の一員に加えられていた。それが、延宝八年、兄家継(四代将軍)の逝去によって、綱吉は五代将軍となり、江戸城に入るにしたがって吉保もそれまでの神田の館(綱吉の居邸)から江戸城詰めになるのだが、この時はまだもとの五百三十石だった。それが綱吉の将軍就任後、しだいに栄達して、ついに一代で甲府城十五万一千余石の大名になるのだから、確かに綱吉の恩寵なくてはかなわぬことである。でも、単に将軍家の寵愛に取り入っただけの出世だったろうか?
 たかが五百石のそれも直参の家筋でもない武士が、いかにおべっかをつかい上様の御機嫌をとれはとて、十五万石の大名に立身できるほど幕閣は愚物ぞろいだったろうか? 諸大名は指をくわえて見ていられるのか?
 副将軍水戸光囲も当時は存命である。尾張(愛知県)には英主とうたわれた徳川光友もいる。戦国乱世なら知らず、泰平の世に一軽輩がおべんちゃらだけで大名になれるほど、世間は甘くはない。もちろん、綱吉のころから将軍権力の独裁化の傾向はみられた。
従前は譜代大名の筋目に限られた将軍側近への登用が、綱吉の代になって外様衆にまで及んだのは事実である。だ
が、幕府がいかに将軍専制政体とはいえ、おのずからな限度というものが当時はまだあった。柳沢吉保の異例の出世には、つまり侯臣であるだけではかたづかぬ理由があったのである。
 理由はふたつ。
 まず吉保が、じつはまれにみる凡帳面な、律義者であったこと。他は綱吉がきわめて倫理観念の強いインテリだったことである。

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