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柳沢吉保 異例の栄達(年譜) 綱吉の妾を妻に(五味康祐氏著吉保佞臣説の拠り所(五味康祐氏著 一部加筆)
 
【加増年譜】
吉保の栄達は、異例のことといったが、その加増を年譜によって列記すると次のようになる。
一、延宝三年 (一六七五)七月、十八歳、家督を継ぐ。五百三十石。
一、天和元年 (一六八一)四月、三百石加増。都合八百三十石。
一、天和三年 (一六八三)正月、二百石加増。都合千三十石。
一、貞享二年 (一六八五)十二月、従五位下誇大夫に叙せられ、出羽守と改める。
一、貞享三年 (一六八六)正月、千石加増。都合二千三十石。
一、元禄元年 (一六八八)十一月、一万石加増。都合一万二千三十石。
一、元禄三年 (一六八九)三月、二万石加増。都合三万二千三十石。
一、元禄三年 (一六八九)十二月、四品に叙せられ、これより二本道具をゆるされる。
一、元禄五年 (一六九一)十一月、三万石加増。都合六万二千三十石。
一、元禄七年 (一六九三)正月、一万石加増。川越城主となる。都合七万二千三十石。
一、元禄十年 (一六九七)七月、二万石加増。都合九万二千三十石。
一、元禄十五年(一七〇二)二月、二万石加増。 都合十一万二千三十石。
一、宝永元年 (一七〇四)十二月、甲府、所替え。都合十五万一千二百八十八石七斗三升七合なり。
 
 以上、元禄年間(一六八八〜一七〇四)だけで六回、合わせて十一万石の加増で、あの松の廊下の刃傷で藩を取り潰され、大石良雄以下の吉良邸討ち入りにまで進展した赤穂城の浅野内匠頭でさえ五万石だったのを思えば、つまり五万石の取り潰しであれだけの事件に進展している事実に照らしてみても、一佞臣に都合十五万石の加増(今の貨幣価値でほぼ年額四十億円程度の増収になる)は、いかに異数な、ありうべからざることか想像はつくだろう。
 では、どうして加増が黙認されたのか?理由は、綱吉の落胤をわが子のごとくよそおって吉保が育てたからである。
 柳沢吉保には、『寛政重修諸家譜』によると、正室(曾雌氏)のほかに何人かの側室があった。そのなかで、染子という婦人が甲斐守吉里を産んでいるが、この吉里が将軍綱吉の落胤だった。染子は六代将軍の御台所となった
近衛氏(天英院といった)が、延宝七年十二月、入輿のため江戸に下られたときお供した女性で、当時十三歳だったという。それが、綱吉の気に入られてお手がつき、妊娠したのを、吉保に賜わった。
 主君の側妾をくだされるのは当時はざらにあったことで、延宝七年といえばまだ吉保は小姓組で、五百三十石である。綱吉も江戸城に入る前である。想像でいうことだが、翌延宝八年、にわかに館林侯たる綱吉が五代将軍家になることに決まって本城に入ることとなり、お手のついた染子を神田の館に残さねばならぬので、吉保に賜わったのだろう。染子はこのとき、十四歳である。
 さて吉保が染子に接したところ、彼女は妊娠しているとわかった。そこでこの旨を言上すると、「いたわってつかわせ」というお言葉である。それで同じ屋根の下に暮らすのはいかがと思いはばかり、別棟の座敷をこしらえてこれに住まわせ、以後、登城するたびに式服で吉保は御機嫌うかがいをしたという。
 もっとも、この時の胎児は流産したらしい。十四歳の妊婦では無理もないが、一説には、女の子が生まれ、早世したともいう。吉里の誕生は貞享四年で、すでに染子をくだされてから七年後であり、だから吉里は御落胤ではなく、正しく吉保の実子なりとの説を唱える人もあるが、そしてこれが吉保を奸臣とみなす大きな拠り所となっているのだが、式服で朝夕の御機嫌うかがいをする律義者が、流産すればとてたやすく彼女を孕ませるだろうか?
 

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