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柳沢吉保 異例の栄達 将軍落胤の養育(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
前の年譜で明らかなように、それまで二千三十石だった家来に一挙に一万石の加増があったのが元禄元年(一六八八)つまり吉里誕生の翌年である。以来、公に、綱吉は他界の直前まで都合五十八度、柳沢邸を訪ねているが、こういうことは古今に例がない。あまつさえ、宝永二年(一七〇五)の夏、染子が大病を患うと、綱吉は松平右京大夫輝貞を使者としてその病を尋ねさせている。輝貞といえば老中格である。いかに寵臣の吉保とはいえ、その妾の病に将軍家が老中を見舞いに遭わすなどありうべきことではない。さらに染子の病気が重くなって、とうとう五月十日、三十九歳で亡くなると、この時も綱吉は松平陸奥守直広を使者として弔わせるのみならず、小石川竜興寺の葬儀の時にもわざわざ香典を遣わした。これまた例のない話だ。
さらに、百箇日が経って、このとき吉保は詩をつくっているが、その端書きに、
「霊樹院百日ノ忌去、特ニ台命ヲ蒙リ恭々シク遺物愚堂墨跡一帳、和歌二十一代集、源氏物語各一部ヲ献ズ云々」
と。
おのが妾に、将軍の命をうけて遺品を献じることなど、あるべきわけがない。さらに驚くべきことにハ、染子の
碑に「施主 甲斐少将吉保」と書いている。この書き方はまさに君臣の礼をとったもので、将軍の廟所一碑を献ずるにも「甲斐少将吉保」としか書かない。わが親や子息の碑にこういう筆法はつかわないのがならいだ。
もうひとつ、柳沢吉保の言行を家臣が記述した『柳沢家秘蔵実記』をみると、吉里を柳沢家では「御屋形様」と
よんでいる。大名の家臣が若殿を、「御屋形様」とは異例のことで、当時は将軍家の姫君が大名家に入興されたのを御守殿様とよんでいる例に照らしても、吉里が誰の子かは明白だろう(江戸時代の慣例で「屋形様」とよばれるのは、薩摩・仙台・越前・出雲・細川・上杉ら国主大名に限られる。他の並大名なら、「殿様」である。もちろん当主だけが「屋形様」なので、『柳沢家秘蔵実記』を書いた家臣の代には、すでに吉里が当主としても、「屋形様」で御はつけないだろう)。むろん、実際は自分の子であるのに、わざと、さも綱吉の落胤であるかのように、「御屋形様」と家臣によばせたとも考えられぬではない。吉保をあくまで邪悪の佞臣とみなすなら、目から鼻へ抜ける絞滑な才子なら、それくらいの欺瞞は平気でやってのけたろう。だが、そんな絞滑の人物だったら以下に記すごとき言行を、なしたろうか?
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