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柳沢吉保 武芸に精進(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
「馬術にもいたくご熱心であった。これは、馬を達者に乗りこなせぬようでは往来で恥をかき申すのみならず、そもそも出火の際に御用をつとめかねるからだと申されて、月に二、三度は必ず馬場へ出て乗馬を遊ばされ、廐に出向いて馬どもを残らず御覧のうえ、飼い葉なども念入りに吟味なされた。冬は綿入りの蒲団を着せ、引馬にも着せ申すよ
う馬役人に仰せつけられたこともある。それほどだから、馬持ちの面々の馬術はしばしば御覧あり、万一、お城近辺に出火あればとの想定で、本郷台町・駒込・小菅などの下屋敷へ早乗り、または駆け足を命ぜられたこともしばしばであった。これは足だめしなので、若いものは常時に足を鍛えておかねば火事などの砌には用に立つまいとの御意であった。
また、雪の日には、早朝より雪の遠乗りをなされることがしばしばで、この儀はあらかじめ御側衆にも伝えられていたから、御側役五郎右衛門などは夜中に雪が降ると、未明に起き出て御馬脇お供の支度にかかった。そんな時、同役宇右衛門は痔疾あり、乗馬ははなはだ苦痛ゆえ当初は馬嫌いの由を言上、たまにしかお供しよぅとしなかったので、いたく不興をこぅむったが、やがてわけを御存じになり『なぜありのままを申さぬ』失笑なされて、以後はいっさい宇右衛門はおかまいなし。このことがあってからは、ほかに痛みどころや病気でお供のなりかねる面々は、『誰々乗馬不相済』と姓名を書き付けてお次の間の柱に張り付けられた。そして平癒次第、名札を取られたので、持病のものはいつまでも書き付けが残り、おりおり、『そちはまだ快癒いたさぬとみえる。身をいたわれよ』お言葉を賜わるので、某ごときものをさ(者長)までにお心におかけくださるかと当人は感泣、これを見た朋輩も御洪恩に感激した」
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