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柳沢吉保 家宣、擁立問題【事の真相】(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
では真相はどうだったの
将軍綱吉には、ふたりの異母兄があった。いずれも父は二代将軍家光で、長兄が四代将軍となった家綱、次が甲府宰相綱重、季(すえ)が館林の綱吉である。
さて四代将軍家綱の病体が重くなったときに、家綱には嫡子がなかった。次兄綱重はこれより先に三十三歳でみまかっていた。そこで五代将軍を季の綱吉が継ぐことになったわけだが、この時、甲府綱重には庶子ながら虎松という遺児あり、長幼の序からすれば、当然、家綱亡き後を継ぐのは次兄たる綱重の子の虎松なりというのが水戸光圀の意見だったという。でもこれは、綱吉の生母桂昌院がなかなかのやり手で、彼女は諸大名はじめ幕府重臣の誰彼なしに、以前から気前よく品物を贈ったりして綱吉の人気を煽り、五代将軍家は大猷院(家光)の御子たる綱吉こそしかるべしとの世論を煽動しておいたから、結局これが効を奏し、綱吉が家綱の跡を継いだ。
さて綱吉には一男一女があった。鶴姫と徳松である。鶴姫は紀州の綱教(つなのり)に嫁し、徳松は当然、次期将軍家たる継嗣として西の丸に入っていた。ところがこの徳松が幼にして亡くなってしまった。となれは、綱吉の血をわけた子は公には鶴姫だけで、綱吉は娘婿たる紀州の綱教を江戸城に迎え入れ、次期将軍に定めたかったらしい。
これに真っ向から反対したのが水戸光圀である。光圀は、綱吉の娘婿よりは甲府の遺児虎松こそ将軍家世継ぎたるべしとここでも主張したわけで、三代将軍家光の血のつながりを尊ぶなら、いっそ家光の息女千代姫(綱吉の姉)が嫁した尾張光友の子綱誠(つなのぶ)こそ、紀州の綱教より血は濃いはずではないかとまで言い張ったのである。これは正論だろう(藤井紋大夫が将軍家の意におもねってこんな光圀を排斥しようと連判状事件をおこしたわけである)。
いずれにしてもだが、光囲の正論にはいかに将軍綱吉とても抗しかねていた。ところが、宝永元年(一七〇四)四月に、ひそかな望みをかけていた娘の鶴姫は亡くなり、さらに翌年五月、婿である紀州の綱教も亡くなってしまった。あまつさえ、それ以前(元禄十一年)に尾張の千代姫は亡くなっていて、その子綱誠もまた元禄十三年に世を去っていた。
ここで、もう綱吉の血を継ぐものは柳沢吉保の子ということにした吉里以外にないわけである。にわかに柳沢父子の存在は、将軍家継承問題にからんで世人の注目を浴びることになったので、吉保が、綱吉の愛妾とひそかに謀って綱吉を亡きものにし、吉里を将軍家に立て、もって権勢をほしいままにせんとしたとか、綱吉が毒殺されたなどという浮説、つまり、柳沢騒動の虚妄がまことしやかに流布された由縁であった。
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