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〔白州の民話・伝説〕鳥原のお薬師さん 鳥原
鳥原集落に、古くから信仰を集めている、お薬師さんがあります。お薬師さんは「薬師如来」とお呼びするが、正しいでしょうか。 でも世間の人たちは「お薬師さん」のほうが、親しみやすいようです。それはともかく、薬師さんはこの世で病気に悩む人々を、救ってくださるという、ありがたい仏さんで、手に薬のつばを持っておられます。村では眼病の薬師さんとして信仰され、たくさんの人たちを救っていただきました。毎年二月十二日がお祭りで、当番の組が団子をつくって供え、お年寄りが御詠歌を唱えて、お祈りします。(元話 渡辺喜久治) |
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〔白州の民話・伝説〕清泰寺(せいたいじ)の蛇骨(だこつ)と雲版(うんぱん) 集落 花水
清泰寺の本尊は、行基菩薩の彫刻によると伝えられる薬師如来であり、寺の開基は源義清である。そのころは寺も大層栄えていました。その後移り変りがあって、無住の時代となりました。 そのころ、清泰寺の裏山にかけて、怪しい雲が巻き起り、付近の民家の鶏・犬・猫などの家畜が、嵐に巻き込まれて、どこともなく消えてしまうという、不思議なことが、しばしはありました。 そのため、村人は妖雲の気配を見ると、急いで家畜を家の中に隠すのでありましたが、間に合いかねて、災難に会うことも、しばしばありました。これは裏山に住む大蛇の仕業であるという噂がもっぱらでした。 こんなとき、甲斐国へ道元禅師という、高僧が入国して、何ヶ寺も復興をはかり、そのつながりで、雲版和尚が清泰寺復興に派遣されました。和尚は着任すると間もなく、この災厄を除こうと、本堂の西にある、坐禅石に百日間坐禅して、一心に経文を読んでいました。 いよいよ満願の日、和尚が読経していると、ついに悪魔が姿を現わしました。それは見る目も恐しい大蛇でありました。 けれども和尚はさして驚きもせず「お前は深山に向って雲を起こし、天空をかけめぐることが大蛇の生きる道じゃ、それなのに人里近くに住んで、人類を悩せるとは、堕落も甚だしいではないか」と、大声で叱りつけました。 さすがの大蛇も「なるほど」と前非を悔いて「わたしの考え違いです。どうか今までのことはお許し下さい」と、深く恥じ入り、和尚に従う証拠として、自分の一肢を喰い切り落して雲版に添え、和尚に拝礼して、これを差し出したかと思うと、早雲に乗って深山に消えてしまったといいます。 それからは、このような怪しいことは起こらず、村里は平和を取り戻しました。大蛇の一肢は「蛇骨」といって、旱魃で困るときは、水を注ぐと雨が降ると伝えています。(元話 清春村誌) |
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古道 駿河路
延書式の駅馬は小川。横田。息津(興津)。神原(蒲原)。長倉(長蔵)各十疋。横走廿疋。
伝馬は益頭。安倍。廬原。富士。駿河郡。横走駅各五疋。とある。
駅で追って見ると、益頭部が小川、安倍郡が横田、廬原都が息津と神原、駿河郡が長倉と横走となる。この延書式が定着するのは延長五年(927)の十二月で、撰上から二十七年目である。それ以前の駅次は不明な点が多く、時によって駅の改変が成されていたようである。
承和二年(835)六月、勅によって「富士河に浮橋を造る」ようにと通行の便を良くすることになり、同じ七年(840)十二月、駿河郡の永蔵(長倉)駅家を伊豆回田方郡に移し、貞観六年(864)十二月駿河郡柏原駅を廃して、富士椰神原(帝劇駅を富士川の兼に移した。
延暦廿一年(802)富士山の噴火で足柄路が埋まり、代わって箱根路が拓かれたが、翌年足柄路が主格に復帰し、箱根賂は脇道となった事と関係があるのであろう。恐らく十里木道が拓かれた事で、永蔵駅を伊豆田方郡に移して便を計ったと考えられる。
貞観六年に柏原駅が廃されて、神原駅を富士川の棄に移した事は、この年七月の富士の噴火に関係が有ろう。相原駅は浮島原の東にあり、難儀な海辺の道を通るより、浮島原の湿地帯を避けて振方路を通行する事にしたのであろう。神原駅の移動は松岡辺りへ移したものと考えられる。
何しろ延喜の駅伝制での駿河国内の駅は、小川・横田・息津・神原・長倉・横走の六駅である。小川は小河で今日の焼津市域、横田は国府安倍を過ぎて江戸期の街道を脇に入って在る。恐らくこの当時はこの道を通っていたのであろう。息津は興津、江戸期には沖津とも記した現清水市域、神原は蒲原で庵原都であるが、この頃は富士郡に入っていたらしい。長倉も永蔵・倉とも記し駿河郡、郡豪が在ったとされる長泉町納米里か。横走は大まかに御殿場市とされるが、比定地は別れている。御殿場の南に山神社がある。ここが横走の御厨が在った所と云うが、小山町北郷の大御神とする説もある。横走駅は時によって変動していたらしい。
『和名類聚抄』に駿河郡には郷名が古家・相原・宇良・駿河・山崎・永倉・玉造・横走などの地名が載っている。構走が富士山の東側の外は愛鷹山麓に分布している。『和名類緊抄』(源順編は承平年間(931〜37)に成ったもので、この頃には富士山の南回りの道が整備されかけていたと考えられるが、問題は富士那を流下して海に注ぐ富士川で、当時は河口深く海が入り込み、沖積化もそれほど進まず、分流が幾筋も流れて、洪水氾濫の時は浮島ヶ原の低湿地にも流れ込んでいたらしい。
奈良時代の万葉歌人の山部赤人は、神亀年間(724〜728)に東国へ使いする宮人に随行し、田児の浦で富士の歌を詠んでいるが、現在よりもっと内陸であったらしい。
従って神原(蒲原)一岩淵を経て富士川を渡り、長倉(永倉)に至る噴路は不明な点が多い。平安時代末期に平家軍との合戦のために、鎌倉を進発した源頼朝は足柄峠を越して竹ノ下より横走駅を通り、南下して黄瀬川宿(沼津市)を経て富士川を前にした賀嶋(加島)に進んだ。賀嶋は富士川や潤井川(万葉集には潤和・潤八川とある)によって形成された氾濫原の総称で地名ではない。富士川も流路が定まらず、潤井川を支流に取り込んで氾濫を繰り返していたのである。〔浮島原も同じ〕しかも富士沼を前に瀬氏軍本営を置いたと云うから、大変な一帯であったらしい。因みに平家軍の進路は安倍河畔の手越駅・高橋宿(清水市)とあり、細かい宿駅の存在が判る。尚、富士都に富士川の畔りに多胡宿などの名が見える。
富士山と愛鷹山の間を通る十里木路は、いつ拓かれていつ脇道になったのかは不明だが、古代にあってはかなり使われた道であったらしい。また富士の西麓を通過する北回りのみちも、延暦・貞観の大噴火で埋まったらしく不明な点が多い。中道往還は甲斐の路で触れる事にする。
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古道 東海道【平安期】
延暦二十一年(802)一月の富士山の噴火で足柄峠が噴出物で埋まり、通行不能となって笥荷賂(箱根路)を拓く。
駿河車返→章瀬川→伊豆三島→箱根町→芦ノ蕩→層の巣山→浅間山→浜坂山(いづれも尾根道)→湯本→小田原→〔延暦二十二年五月、足柄賂を復旧し箱根路は脇道とする〕飯泉(千代より観音堂を移す)→小捻(国府津)→押切川の北→川匂→大磯→平塚四之宮(前鳥郷)相模川を渡り→寒川→打戻→伊参→
※ 延書式時には厚木付近まで陸化が進む。
足柄峠→坂本→小絵一余綾一箕輪→浜田(藤沢北部)→店屋→
※ 菅原道真四代の孫・孝標の娘が書いた更級日記(寛仁元年・1017)によると
西富(藤沢市遊行寺)→海辺→唐土ヶ原(賂沼〜大磯)→足柄のコースをとる。
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