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 清光の子、武田信義生まれる 須玉町誌
義清

→清光 伊豆守 甲斐守
大治三年(一一二八)
 母源兼宗女。仁安三年七月八日卒。

→光長 逸見冠者太郎 上総守
 母同信義。池田遊女。

→信義 武由太郎
 大治三戊申(1128)八月十五日生。光長同胞。光長巳時。信義午時生。号駿河守。

→ 遠光 加々美次郎

→ 義定 安里郎遠江守
 於甲州馬木大井窪大御堂被誅。

→ 清隆 安井内郎
  二宮。東候租。

→ 義長−河内五郎→光義 田中五郎

→ 巌尊 曾禰禅師 曾禰租。

→ 飯室七郎

→ 三梓八郎

→ 光宗坊 九郎

→ 義行 奈胡十郎
   八條院蔵人。
 
 → 養成 浅利与一
   江州山崎氏出自是。

 → 義氏 利見與二

 → 信清 屋代與三
(「武田系図」続群書類従巻百二十一)

◇ 武田信義 武田太郎 
逸見冠者清光子也
  与逸見光長同日二児出生乃両人共号太郎云々
武田太郎 午刻誕生
逸見太郎光長 巳刻誕生
母手輿遊女(「尊卑分脈」第三篇、清和源氏義光流)

〔解鋭〕
 源清光には数多くの子がいて、その男子の多くを甲斐国内の要地に分封し、その地名によって氏を称させた。これ
により、逸見・武田・加賀美・安田・平井・河内・田井・曽爾・奈胡・浅利・八代などの諸氏が生まれ、その後も、甲斐源氏は幾多の分脈に分かれて発展していった。このうち、武河荘武田(韮崎市神山町武田に拠って武田氏を称
したのが信義であり、その子孫は代々甲斐源氏の惣領として繁栄をみた。この系図では、信義を義清の子としている
が、明らかな誤りである。
武田太郎を称した信義は、『尊卑分脈』『武田系図』によれば、大治三年(一一二八)八月十五日、手輿遊女(一説に池田遊女)を母として生まれ、兄光長と同胞の双生児であったため、ともに太郎を称したという。ただし、系図類には後世の書き込みや作為の跡がある。本当は嫡出の光長の異母弟であったが、たまたま両人が同年生まれであり、後世、庶流にあたる武田氏が一族の宗家となったことで、系図に作為が加えられ、光長と同胞双生児という説が生まれたものとみられる。
なお、大治三年という生年が正しいとするならば、その二年後の大治五年(一一三〇)に義清・清光父子が常陸から甲斐に配流される直前に、信義はすでに常陸国で生まれていたことになる。彼が武田氏の祖となったのは、配流直前まで一族の根拠地であった常陸国那珂郡武田郷(次項の解説参頗)にもとづく姓を、祖父義清が最も信頼できる孫であった信義に名乗らせたことによるのではないかとみる説もある。

甲斐源氏の祖源義光没する 須玉町誌
(「大聖寺過去帳」甲斐叢書八)
 大治二年(一一二七)
弓馬達者名将也 於園城寺新羅大明神赴壇加首服
号新羅三郎 依号新羅三郎 常陸介 甲斐守 従五上 兵衛右馬允 刑部少輔 左衛門尉 刑部丞 
平日住三井寺 
      擬舎兄義家朝臣子
→義光
母同義家朝臣
大治二十二卒 大往生人云
伊与阿闇梨
→快馨 号西蓮房
 母(「尊卑分脈」第三篇、清和源氏義光流)

義光山大聖寺殿峻徳尊了大居士
   俗名戟新羅甲斐守義光
   大治二年戊申十月廿日卒
〔解説〕
源義光が大治二年十月二十日に没したとするのは、『尊卑分脈』以下、諸系図にすべて一致しており、異説はない。
大聖寺は、南巨摩郡中富町八日市場にある真言宗の古刺で、義光の曽孫にあたる加賀美遠光(清光の第三子)が、宮中警護の任で都にあったとき、高倉天皇から下賜された不動明王坐像を本尊とし、義光の位牌を安置して開基したという寺伝を持つ。現存する不動明王坐像は、その作風からも都での製作を思わせる平安末期の秀作で、国重文に指定されている。

源義清の子、清光生まれる(須玉町誌)
→清光
一男。母上野介源乗宗女。
天永元年(1110)
六月九生甲州市川舘。
天治元年(1124)
正月十二几服。十五歳 加冠源義園。号甲斐冠者。黒源太。従五位下。右馬助。童名徳光丸。兵庫助。左衛門尉。治民兵刑等之少輔。信相豆速筆四ケ園之管領。甲斐国大守。糾方不傳。
 仁安三戊子七月八草。五十九囁墳墓在甲州逸見。
→師光
 二男。母家女居。号方原二郎。参州方原下司。
(「小笠原系図」続群書類従巻百二十四)

〔解説〕須玉町誌
 源義清の第一子、清光の伝が最も詳しい系図を掲げた。
生年の天永元年 (一一一〇)、上野介源兼宗の女が母という点は、諸系図とも一致している。ただし甲州市川館の生まれというのは、大治五年(一一三〇) に至り、父義清とともに常陸から甲斐に配流されてきたこと(史料134参照)は明白であるから、後世の附会に過ぎない。また、経歴についても、義清のそれと同様、僭称もしくは系図作者の潤色であろう。「甲斐冠者」は、『尊卑分脈』などに「免(逸)見冠者」と称されたことが記され、後に逸見(現在の北巨摩郡方面・韮崎市、北杜市)に勢力を張ったことを裏づけるもので、逸見に墳墓ありとする伝も注目される。ただし、その逸見の中心地がどこであったかは判然としない。『甲斐国志』は、義清・清光二代の居館が若神子にあるとし、本所は『吾妻鏡』に伝える治承四年(一一八〇)九月、平家方の管冠者を討った後に甲斐源氏が集結した「逸見山」に相当すると推定している。本町の若神子城跡がそれにあたるが、大泉村谷戸にある谷戸城跡を逸見山の居館とみる説が、近年では有力視されている。また、中世の逸見荘(建長五年一〇月二一日の近衛家所領目録に「甲斐国逸見荘冷泉宮領内」
とあるのが初見)は、古代の逸見郷の北部にあたり、おそらく御牧の柏前牧を併合して成立したとみられる逸見牧
(磯貝正義「古代官牧制の研究」『郡司及び采女制度の研究』)の後身である可能性が高いことから考えあわせると、
清光が勢力を広げた逸見の範囲は、須玉町から北は高根町・大泉村一帯に及ぶ広範な地域だったと思われる。いずれにせよ、八ヶ岳南麓の広大な牧場地帯を周囲に配し、信濃・佐久方面との交通の要衝でもあった逸見の地を支配す
ることによって、豊富な財力と強大な兵力を養い、甲斐源氏発展の基礎をつくったのが、逸見冠者清光であったこと
は間違いない。ちなみに、諸系図とも清光を「黒玄太」と注記するが、おそらくこれは彼が色黒であったことから付
けられた通名であろう(?)。

刑部丞源義光、馬二疋を右大臣藤原忠実に贈る(須玉町誌)
康和四年(一一〇二)二月三日、瑚、天晴、午剋許長門牛牧牛将来、六頭也、其外一頭威徳□(米斤)一頭、酉剋許陸奥守實宗(藤原)送馬四疋、又義光認、馬進、是去年差使者面敢遣也、
義光二疋、成剋」許渡威信房、(「殿暦」)

〔読み下し〕
 二月三日〔戊子〕。天晴る。午の剋許り、長門牛牧の牛将来る。六頭なり。其の外の一頭は威徳料の一頭。酉の剋
許り、陸奥守実宗馬四疋を送る。又義光〔刑部丞也〕、馬を進る。是れ去年使者を差して取り遺す所なり。義光二疋。成の剋許り、威信房に渡す。
〔解説〕
 『殿暦』は、関白太政大臣藤原忠実の日記である。晩年、次男頼長が保元の乱に赦したことに連座し、知足院に幽閉され、ここで没したため、知足院殿とも称され、その日記は『知足院殿記』『知足院関自記』とも呼ばれる。源義光が当時は右大臣であった忠実に馬二疋を贈ったことが知られる。刑部丞の義光は、武士として活躍していたというよりは、中下級貴族の多くがそうであったように、権門に奉仕する一役人として中央政界に生きていたのである。このような私的な責馬は、公的な駒牽が衰退した十二世紀に、むしろ一般的に行われていたがヾ使者を派遣して取りに行かせたというその馬が、どこの国に慶したものかは定かではない。

源義光の子、義清生まれる
 承保二年 (一〇七五)
−義光
(中略)
 →義業
  一男。母甲斐守知贅女。戟刑部太郎。進士判官。相撲権佐(介欺)住常陸国(茨城)。佐竹之租也。
→義清
 二男為正嫡。母同上。白河院御字承保二乙卯(1075)四月十六生 於江州志賀御所。童名音光丸。
  寛治元丁卯(1087)十一月十五元服。十三歳。加冠伯父義家朝臣。号刑部三郎。従五位下。甲斐判官。
右馬助。兵庫助。左衛門尉。刑部少。民部少。治部少。甲信遠等之大守。
  嘉保元甲成(1094)八月五日糾方的博。師範義光。以有其器。
  抽兄弟獨得家法。
 久安五己巳(1149)七月廿三卒。†五囁
 墳墓在甲州市川庄。
→盛義
  三男。母同上。平賀冠者。
→親義
  四男。母同上。間門冠者。
(「小笠原系図」続群書類従巻百二十四)

〔解説〕須玉町誌
 甲斐源氏の実質的な祖は、義光の次男義清(刑部三郎と称することから、最初は三男として出生した可能性が高
い)である。生年の承保二年(一〇七五) は諸系図とも一致するが、『小笠原系図』のみが四月十六日と、月日までを記す。同系図の義光の生年とあわせると、義光十八歳の時の子ということになる。長兄の義業は常陸佐竹氏の祖、弟盛義は信濃平賀氏の祖となるが、母は兄弟皆同じく、甲斐守如実(『尊卑分脈』では知家)の女とされる。
 しかし、浅羽本『武田系図』(史料136)では、義清の母を常陸国の住人鹿島清幹の女としており、後述のように義清が甲斐国へ移住する以前、常陸国にいたことは明らかであり、この説もー考に値する。また、義清の出生地を近江国志賀御所、童名を青光丸とするのは、『小笠原系図』独自の記載であるが、その依拠するところは明らかではない。また、経歴については父の義光のそれと重なる部分が多く、上の潤色とみられるが、甲斐判官になったという伝には一応、注目しておきたい。義清と甲斐国の関係については、後掲の史料134の解説を参照。

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