白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

山梨県・北杜市・白州町のありのままの姿をジャンルを問わず綴っていきます

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

【武川村の中心街と村の概要】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
昭和初年横手−日野春停車場線が開通して国道二〇号と交差、これを機に下三吹の住民は大武川の流路移動によって飛地となった同川右岸の交差地点一帯(河川敷)に進出し、新開地とよばれる武川村第一の繁華街を形成した。
昭和三四年の大水害でことごとく流失したが復興し、同三七年下三吹から分区した。その後県営団地・村営団地がつくられるなど武川村の中心街として発展している。村の産物は夏秋トマトと山芋が産地化し成果をあげている。現在神代ザクラの近くに神代公園、舞鶴マツと並んで舞鶴公園、大武川・石空川流路工事、大武川河川公園、農業集落排水事業などが年次計画で進められている。名実ともに山と水の美しい村として西に南アルブス山系を望む大武川の
渓谷沿いに胃腸病の霊泉として知られる大薮鉱泉がある。
近くに戦後に入植した真原開拓地があり、現在酪農と肉用牛などの飼育と、大自然を生かした民宿やオートキャンプ場、黒沢川を隔てて甲斐駒カントリークラブがある。
また新日本名港百選に選定された精進ケ滝(落差一二二メートル)がある。

【武川村の家塾および寺子屋】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
 明治五年学制頒布前の家塾および寺子屋は三吹村の武藤佳也、柳沢村の一条信郷・小池五万人、大学院(修験)奥平宥達のほか山高村石原嵩山(通称太郎左衛門)、牧原村の小林源甫があった。
明治六年八月宮脇村・牧原村・新奥村・柳沢村を区域として宮脇村普光寺、三吹村・山高村・黒沢村を区域として三吹村武藤佳也宅をそれぞれ仮校舎として、公立小学校宮脇学校、三吹学校が創設された。翌七年両校を合せ、山高実相寺を仮校舎として第六八番公立小学山高学校と称した。翌八年武里学校と改称して藤村式洋風校舎に移転した。同年一一月柳沢村は駒城学校の所属となった。同一〇年校名を富里学校と改め、同一一年校舎落成、開校式を挙行した。

【武川村生業、明治から大正〜昭和時代】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
 明治八年、新富村・武里村が成立。同一一年北巨摩郡に所属した。同二二年新富村・武里村は組合村となる。昭和八年新富村・武里村が合併して武川村となり、同三〇年駒城村の一部柳沢を編入した。産物は米で、南アルブ
スを水源とする釜無川・大武川・小武川・尾白川・石空川・黒沢川の諸川は砂質壌土の水田を潤し良質な武川米の生産地として知られる。この声価は地主と小作人との約束として、小作米は品種を限定して良質米を納めたことも一因となっている。馬は近世以来多くなり、ほとんどの家で農耕馬として飼育するようになった。
大正五年頃は柳沢三二〇、新富一六六、武里九九の馬が飼育され、用途は農耕用のほか荷車引として稼馬があった。 
第二次世界大戦後は馬から牛に替わったが、耕運機の普及によりしだいに減少し、今では肉牛と乳牛が真原開拓で飼育されている。副業として養蚕も盛んで、各集落では蚕玉大神を祀り、住宅は蚕の飼育場となった。
昭和四〇年代後半からはほかに現金収入の通が開け、養蚕は衰微した。また山稼も薪取・炭焼、建築用資材の伐採などで働いていたが、時代の進展に伴いまったくなくなった。冬仕事としては水害で流された耕地や堤防仕事に土方として出労した。

【武川村と河川の水害の歴史】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
永禄年間大武川の氾濫により幸燈宮一帯が流失した。
享保十三年七月釜無川と大武川が氾濫し、三吹下組は集落のほとんどが流失、一二月高台の畑に屋敷割をし、四五軒が移住した。
寛政二年、文政一一年(一八二八)と大水害を被り各村では水災供養塔・九頭竜権現などを祀り安全を祈願した。
明治二年(一八六九)七月の水害も釜無川通り田畑流失二九町歩に及び、各河川周辺に被害をもたらした。
明治三一年九月の台風により上三吹七四戸が砂石に埋まった。
大正三年(一九一四)の大武川の氾濫も下三吹と牧原に被害を与えた。
昭和三四年(一九五九)八月に台風七号と九月に一五号(伊勢湾台風)により村域は大水害を被り、流失民家一二九戸、死者・行方不明二三人、流失農地一二〇ヘクタール、堤防橋梁のほとんどが換害を受けた。この災害復旧には四カ年の歳月と三五億円の巨費を要した。

【江戸時代の武川村】

【江戸時代の武川村】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
 江戸時代には七村があり、巨摩郡武川筋に属した。七村とも宝永元年(一七〇四)ないしは同二年に甲府藩領となり、享保九年(一七二四)から幕府領甲府代官支配となる。
牧原村と新奥村は延享三年(一七四六)から寛政六年(一七九四)まで一橋家穎であった。文久二年(一八六二)頃も七村とも甲府代官支配。河岸段丘の高地に位置する山高村・黒沢村・新奥村と、沖積低地に位置する三吹村・牧原村・宮脇村・柳沢村とに分けられる。河川は急流で平常は潅漑用水に利用されているが、豪雨時には大水害がしばしば起こった。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.

過去の記事一覧

白州町地域なんでもジャーナル
白州町地域なんでもジャーナル
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事