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【甲州道中 先触】
官役人や身分のある人が道中するときは、前もって街道の宿駅に人馬の継立を準備させるために「先触」を出している。
先触
覚
一、宿駕籠 壱挺 此人足弐人
一、分持人足 壱人
右者此度腰巻権少輔
御年礼為
御目見来廿五日韮崎宿出立罷越供
依之書面之人足被差出 御定之賃
銭請取渡船止宿等ニ至迄差支無之
様取斗可給供 以上
甲州腰巻権少輔内
柴田兵助⑳
宿々問屋
中
年寄
追而申入候此先触内藤新宿ニ止置
自分方へ被相渡可甲候
以上
これは韮崎の一橋陣屋の代官奥田三右衛門の手代が出したもので、この先触は韮崎の若宮八幡宮の神主が御年礼御目見のため、来る十二月二十五日出発するので、書面の人足を差出してくれるよう、また規定の賃銭はうけ取り、渡船や旅宿にも手落ちの無いようお願いするというものである。宿駕寵は各街道宿駅間を往来するための駕籠で、分持は荷物などを分担して持つ人足のことである。
また末尾にあるのは、この先触が次つぎと宿駅を継ぎ立って内薪新宿に着いたら、そこに止め置いて自分方に返してもらいたいと述べている。
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2011年11月08日
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【台ケ原・教来石の両宿、天明三年十一月道中奉行宛】
これとは別に台ケ原・教釆石の両宿は、天明三年十一月道中奉行宛に
「当地は寒冷僻地で、農業、道路も悪しく難渋しているので、
宿場助成のため壱宿金三百両づつ、
拾ケ年賦で御拝借願いたい」
と願い出ている。結果は文献乏しく判明しないが、住民たちの苦衷がうかがえる。
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【宿駅の過重負担を緩和】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
宿駅の過重負担を緩和するため、継立人馬賃銭の割増があった。寛政十一年には五街道の賃銭を一割五分増としたが、文久四年二月には教来石・台ケ原・韮崎三宿役人惣代教来石宿問屋九郎須(河西)及び三宿助郷惣代鳥原村組頭伴右衛門連署にて、道中奉行宛に五割増御定賃銭を蔽い出ている。そしてようやく慶応三年十月に仕法改正となった。
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【甲州道中 継立】
<差上ケ申手形之事>
一
御朱印御伝馬・商人荷物共ニ三十日蔦木より教来石ニ而請取申、朔日才廿五日まてハ台原へ次申候、廿六日才晦日迄教来石より韮崎江次申候御事
一
御朱印御伝馬・武士御荷物・商人荷共ニ毎月廿六日才晦日迄ハ台ケ原より教来石江請取、蔦木江次申候御事右之趣致和談、自今己後申分無御座候、若六ケ敷中上侯ハバ何様之曲事こも可被仰付候、為後日一札持上ケ申候
寛文七年末ノ二月四日
甲州教来石町
問屋 八郎右衛門㊞
同 理右衛門㊞
庄屋 与一左衛門㊞
御奉行様
【甲州道中 継立 天明三年浅間山噴火以降】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
当時は御朱印御伝馬・商人荷物・武士荷物の三つに分けた。
御朱印御伝馬は下りの場合、
蔦木から教来石へと継ぎ、一日から二五日までは台ケ原・韮崎と継ぐ、二六日から晦日までほ台ケ原を通過して、韮崎へと送る。
上りの場合は、
韮崎宿からは台ケ原へと継ぎ、一日から二五日までは、台ケ原から蔦木宿まで三吹まで送り、二六日から晦日までは教来石・蔦木と継ぐ。
台ケ原馬は二六日から教来石宿への継立に用いた、商人荷物も御朱印御伝馬の場合と同様な継立方法をとった。武士荷物は下りの場合は、蔦木から台ケ原・韮崎と継立て、上りの場合は前二者と同じである。
こうした継立方法が生じた理由は、蔦木から台ケ原へ送る場合が多く、教来宿が、商人荷物は以前から、蔦木より教来石へ付け送った例をもって訴へ、そのように定めたという。
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【台ヶ原宿場 抜粋】近世の道路と交通(『白州町誌』)一部加筆
*高遠屋
*鈴木昇 日向富屋
*中山正昭 問屋
小池たまき 伊勢屋
小池結城 本陣
北原新次 七賢 行在所
菊原唯雄 松坂屋
細田元 松田屋
細田董治 富屋
鈴木オリン 天満屋
宮川氏 脇本陣
小野敏明 丸屋
古屋金二 大和屋
森川茂子 笹尾屋
細田正雄 沢田屋
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