白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

山梨県・北杜市・白州町のありのままの姿をジャンルを問わず綴っていきます

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【白須松原 明治天皇ご巡幸】
とあり、また、明治十三年六月、明治天皇ご巡幸の砌、しばらく御車をとどめさせ、風色をご観賞、松茸の産することを聞かされ、その翌年より五ケ年間、待従職富小路敬直らを、お差し遣わし採取されたという。
さしもの名林も、昭和十六年伐採され、子供広場や宅地・畑と変わり、現在は「白須松林跡」の碑石によって、往古を偲ぶのみである。

【白須松原 征東将軍宗艮親王】
 南北朝建武の昔、正平七年(一三五二)征東将軍宗艮親王は、遠州井伊谷の城より、信濃に向こう途次、しばしこの松原に憩われた。そのときの御歌に
 かりそめのゆきかひぢとは ききしかど いざやしらすに まつひともなし(李歌集)
 
そのほか
 八千代まで ともにしらすのひとつ松 へぬる齢を いのりすみつる (題しらず)
 今しばししばしと 日をやくらさまじ 夏もしらすの 松の下道(題しらず)

【信州路 白須松原・六本松・白洲ノ古松】
駿河の清水、興津、蒲原、富士、鰍沢、韮崎の順路で、台ケ原、教来石、蔦木に至る道であるが、この道筋のうち韮崎以北は、釜無川やその支流がしばしば氾濫して橋梁を流失し、沿岸は荒廃していたので、通路として古くは河内路より大井郷に出て、西郡路から甘利山の麓を清哲、宇波円井、武川村(町)の黒沢、山高、柳沢を経て、横手本村(いま「閑の桜」の木のあるところ辺に関所があったという)、菅原村(現白州町)の竹宇・前沢 (田沢)・鳳来村(現白州町)鳥原・教釆石・山口に至ったものである。
 国志に「白須ノ松原・白須・鳥原両村ノ間釜無川原ニ在り。濁川其中ヲ流ル、松樹密生シテ稲麻ノ如ク、皆直幹雲ヲ払フ公林ナリ、白砂清麗ニシテ、海浜ヲ望ム光景アリ。白州ノ名虚シカラズ、甚賞翫スベシ。松茸・麦茸(シュロ)多シ、其内ニ「一株六幹ニシテ頗ル奇ナル松アリ、是ヲ六本松」卜呼ブ、又萩乾場卜云フ所ニ、「白州ノ古松」卜称スル古木アリ」 とあり、延々一里におよぶ松林は、道行く人の旅情を慰めた。

【五街道 甲州街道、原路・西河路】
 徳川家康は慶長五年関ケ原の戦のあと、東海、東山、奥州、日光、甲州の五街道を設けて、各街道に伝馬制をしいた。しかしこの甲州街道は降雨のために釜無川、尾白川、濁川などの出水によって、たびたび通行が不能となって、その機能を十分果すことができなかった。そのため出水時に脇往還の役割をもつ原路が重要視された。『甲斐国志』には次のように記されている。
 原路卜云ハ韮崎宿ヨリ新府墟ノ下ヲ過キ穴山村ニ係り日野ノ原ニ会ス、中世韮崎、渋沢、小渕沢、信州蔦木宿卜鳴行スル事ニナリ、宝暦中駅宿ヨリ支リ訟論ニ依り「西河路」ニ水アリタ往還ナシ難キ時ハ台原宿ハ渋沢ニ出テ、教来石宿ハ小渕沢ニ出テ駅伝可致趣ニ公裁定ルト云、
 このように、「西河路」すなわち甲州街道が出水のため一部通行ができない場合は、台ケ原宿は渋沢へ、教来石宿は小渕沢へ継立てることが公に認められた。しかし小渕沢などが伝馬役の負担が重いためその免除を願いでて、宝暦以後は小渕沢の宿駅業務は教来石宿が出向いて行なうことになった。このように甲州街道が開かれてからも原路に相当の貨客の通行があったものと思われる。

【原道】

【原道】
韮崎から新府を過ぎ、穴山・日野原に出る諏訪上道で、日野原から前記の花水・台ケ原に進むか、渋沢・小渕沢、信州蔦木に達する道筋が利用された。西河路に対して台地上を信州に至るので原路と呼んだのである。


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