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白州町の緯度経度
緯度・経度は次のとおりである。
東端 東経 一三八度二一分五二秒 (釜無川・尾白川合流点)
西端 東経 一三八度一一分一七秒 (編釜山の西・釜無川本谷)
南端 北緯 三五度四四分 (大坊南端・ヒョングリ滝)
北端 北緯 三五度五三分 (大武川部落 釜無川河床)
白州町はまた、県都甲府市より北西約三〇キロメートルはなれた県境の町である。本町集落のほぼ中央に当る白州町農業協同組合近くの水準点は六一四・五メートルで、集落や農耕地のあるところの標高は、おおむね五六〇―七五〇メートルの間に存在しているといってもよい。その上内陸的な気象条件であるために農業振興の面では、大きな障害がともなっている。
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2011年05月13日
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白州町の位置・面積・人口
白州町は山梨県の北西部、長野県との県境に位置する総面積一三七・五六平方キロメートルの町である。北は釜無川を境として小渕沢町に、東は長坂町に、南は大武川と中山山頂を境として武川村に、北から西にかけて長野県富士見町と長谷村に接している。
本町の人口は、合併時は六、六六九人であったが、其の後、昭和三十四年の台風災害復旧工事関係の従事者の居住した昭和三十五年の六、六七七人をピークに激減の一途をたどり、昭和六十年四月一日現在四、三八八人となった。全国的な農村人口の過疎化の傾向を如実に示している。
総面積一三七・五六平方キロメートルの中で山林が最も広く、その八八・九%を占めて一二二・三一平方キロメートル、
水田は三・七二平方キロメートル(二・七%)、
畑は二・七二平方キロメートル(二・○%)、
宅地は一・一八平方キロメートル(○・九%)、
原野その他七・六三平方キロメートル(五・五%)
となっていて、耕地の合計四・七%は県平均の一〇%の半分にも達していない。
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白州町の誕生
日本列島の中央部、本州の屋根ともいわれる南アルプスのなかに雄姿を見せている駒ケ岳連峰と、そこを源流として流れ出て、北方に答える八ケ岳の火砕流を削りながら七里岩の断崖を形成して流れる釜無川と、南は大武川に包まれた地域が自州町である。
白州町は昭和三十年七月一日に、旧鳳来村、菅原村の全部と駒城村の横手、大坊および一旦長坂町となった旧清春村の花水が分町合併して誕生した町である。
花崗岩で形成された駒ケ岳山地より、大武川、尾白川、神宮川(旧濁川)等が流れでて堆積した真白い砂が一扇状地を造り、大きな洲をなしていることから白州町の名が生まれた。
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白州町台ケ原 荒尾神社百観昔供養塔
安山岩製で高さ一、六四メートルの四角柱で、四方の上部に金剛界の四仏を梵字で示し、その下部に雛健な刻りがみられる。
ウーン (阿閤) 坂東三十三所
タラーク(宝生) 当国三十三所(甲州)
キリク (弥陀) 西国三十三所
アク (不空成就) 一懸一秩父三十四所
いわゆる百観音に加えて、甲斐国札所三十三観音の供養のための造顕である。無銘たがら簡単で要を得た遺品である。
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白州町大武川 福泉寺仁王般若供養塔
この塔は七難減除のための造顕とされる。『仁王経』には二本あるが、これは旧訳の『仁王般若波羅密多経』(二巻)であろう。挑泰の鳩摩羅什(三四四―四一三)の訳で、仏が十六大国王のために、それぞれの国を護り、安穏にさせるため、この経典を受持することをすすめたものである。それを受持講説すれば、七難(日月・星宿の里(変・災火悪風・早天・悪賦など)をなくして万民が豊楽を得ると伝えられ、『法華経』『金光明経』とともに護国二部経として、わが国では古くから読誦されてきたものである。
この塔は基礎の上に四角柱の塔身を立て、上部に宝珠をいただく屋根をのせたものであるが、降り棟の曲線といい、垂直に近い内斜に切られた軒や、わずかにみせる軒反りなど、江戸中期の代表的な供養塔の名にはじない。正面に刻銘がある。
「奉読謂仁王般若経二千部 享保五庚子年三月吉日」子孫繁昌善男善女のため、名取仁左ヱ門が建てたものである。
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