|
白州町の気象災害(「白州町誌」昭和61年より) |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年05月30日
|
◆甲斐源氏の祖 新羅三郎義光歿後、在地勢力反発、大治五年、清光濫行 甲斐島流し
仁平元年(一一五一)四月八日の吉田神社文書によると、当時、吉田郡に倉員といわれる別名がありました。郡司吉田氏(幹清か広幹)は別符武田荒野には倉員名の古作田二町があり、新作二町を開発し、今後さらに追年これを加作するとの請文を国守に提出して、別符に対する則頼の執行の停止を求めたのです。国守平頼盛は、国益のため則頼の沙汰を停め、郡司の名田として開発させることとする国司庁宣の施行を命じた留守所下文が、吉田郡倉員に発せられています。
この文書にみえる「則頼」は、「春日権現験記」にみえる鹿島社の大禰宜中臣則助、保元元年十月の関白家政所下文(香取大彌宜家文書)にみえる鹿島大禰宜則近、永安四年(一一七四)十二月の国司庁宣(鹿島大彌宜家文書)にみえる大彌宜則親など、人名に「則」の字がついているのをみると、鹿島社の大禰宜を世襲した中臣氏一族の者であることは間違いないのであります。したがって、鹿鳥神宮の勢力が武田郷に及んでおり、吉田郡の郡司職を相伝する吉田氏と衝突していたのです。十二世紀初めごろの武田郷周辺の地は、吉田杜や吉田郡の郡司職を相伝する吉田清幹.盛幹父子、荒野開発や買得による名田の獲得に動く鹿島杜の大彌宜中臣氏、それに武田の地に拠点を構えた義清・清光父子らがたがいに勢力を張り合っていたのです。
はじめは吉田清幹と姻戚関係にあった義清であったが、義光が策略を用いて清幹の子の鹿島三郎を殺害してからは、吉田氏との間柄も険悪になっていたと思われます。そうした晴勢の中で若さにあまる清光は、武力をもって吉田郡内の吉田氏や鹿島社大彌宜の領地を侵略する行為にでたものと思われるのです。「濫行」「悪源太」といった言葉からうける感じは、単なる争いごととは思われません。
大治二年(二一二七)、義光が世を去ると、新参者に対する在地勢力の反発が強まり、大治五年十二月、清光の濫行として朝廷に訴えられたのです。
訴えた常陸国司は藤原朝臣盛輔です。盛輔はこの年の五月二十五日に、鹿島社の神殿修造をし、重任の功の宣旨を賜わっており、大禰宜中臣氏とは関係が深いものがあったのです。在庁官人である常陸大橡平致幹か直幹は、義光亡きあとの義清.清光に対しては、一族の吉田氏に対する仕打ちからみて、快く思っていたかったものと思われます。もし常陸大橡が義清・清光に好意をもっていたら、清光を訴える手続きはしなかったのではないでしようか。
しかも清光の濫行にことよせて、父親の義清までも配流にして武田郷から源氏の勢力を一掃してしまった背景には、常陸大橡と藤原氏の周到な計略が感じられるのです。獄令によれば、「凡そ流人配すべくは罪の軽重に依りて、各々三流に配せよ」とあり、遠流が伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐、中流が信濃、伊予、近流が越前、安芸となっております。『令義解』には、その遠近を定むるは京よりこれを計る、とあります。甲斐に流された義清・清光は中流に当たるのでしょうか。
義清.清光が甲斐国に配流されたときは、佐竹氏にとっても危機であったに違いありません。しかし、昌義の母が吉田清幹の女であったこと、義業が従位下、相模介、左衛門尉、進士判官、昌義が信濃守と『尊卑分脈』にみえるように、中央との関係も密であったことや、佐竹氏の支配地が常陸大橡一族や鹿島社などと競合したかったことが、佐竹氏の土着を成功させたものと思われます。
|
|
源為朝のこと・悪源太清光のこと
源為朝は『保元物語』上の「新院御所各門カ固めの事」によると、幼年のころから「不敵にして兄にも所をおかず、傍若無人」であったので、十三歳のとき父為義は鎮西に追い下した、とあります。仁平元年(一一五一)のことであります。為朝は尾張権守家遠を守り役として、豊後国に居住し肥後国阿蘇忠景の子、忠国の婿となり、九州の総追捕使と号して三年のうおに九州一円を攻め落してしまったといいます。
左大臣藤原頼長の日記『台記』の久寿元年(一一五四)十一月二十六日条には、「今日、右衛門尉為義五位解官、其子為朝鎮西濫行事依也」とあり、『百錬抄』久寿二年四月三日条にも、
源為朝は豊後国に居し、宰府を騒擾、管内を威脅す。依って与力の輩に彗ん由つ禁遇すべきの由、宣旨を大宰府に賜う、
とあります。
為朝の濫行に連坐して父の為義が解官しているのは、清光の濫行と似ているのであります。為朝は幼年のころから不敵にして、傍若無人であったといいますが、清光にもそうした性格があったように思われます。清光は『尊卑分脈」や「武田系図」によれば十八名の男子をもうけています。これだけからみても清光は精力絶倫で、並はずれた気量の人物であったことが知られます。おそらく、祖父義光の性格をうけついだのでしょう。そうすると、『尊卑分脈』にみえる「黒源太」という称号が間題になるのです。「源太」は源家の太郎の意でありますが、「黒」はなんでしょうか。清光の顔色が赤黒かったという考えもありますが、元来この称号は、この人物の性格をあらわすものと思われるので、その姿、彩の形容ではありません。おそらく、「悪源太清光」と呼ばれて人びとから恐れられていたのではないでしょうか。
悪源太ならば、他にも類例があります。源義朝の嫡子義平は、『尊卑分脈』に「鎌倉悪源太と号す」とあり、『平治物語』『源平盛衰記』によれば、義平は十五歳のとき叔父の春宮帯刀義賢と武蔵大倉に戦い、これを斬ったので、世に鎌倉の悪源太と呼ばれた、とあります。義平の母は三浦大介義明の女で、鎌倉にいたので、そう呼ばれたのです。悪源太義平は、平治元年(一一五九)、十九歳で六条河原で討たれております。「悪」をつけられた人物は、他にも、悪左府、悪七郎兵衛景清、悪禅師がいます。悪左府とは左大臣藤原頼長のことで、『保元物語』には賞罰をわかち、善悪を正すがあまりの頼長のきびしく行きす
ぎた言行に対し、時の人が「悪左府」と称して恐れた、とあります。
悪七兵衛景清は、『源平盛衰記」『平家物語』によれば、上総七郎兵衛と称し、躯幹長大、勇を以て一時に聞こえ、世呼んで悪七兵衛という。平家減亡後逃走、のち頼朝に降り、八田知家の家に預けられたか、食せずして死すとあります。悪禅師は「清和源氏系図」によれぽ、将軍実朝を誅した公暁を世の人が、悪禅師と呼んだことが知られます。「悪」は中田祝夫『新選古語辞典」によれぼ「正義、道徳、良心などに反すること。またはその行い。性急はげしい、荒々しい、強剛である、などの意を表す語』とあります。そうすると、清光は「黒源太」よりも「悪源太」と呼ばれる方がふさわしい人物であります。「悪」と「黒」は草書では間違いやすいので、「悪源太」とあったのを、「黒源太」と誤記したのか、あるいは悪源太の称号を嫌って後世の人が「黒源太」としたことも考えられるのです。
|
|
◇甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の子 義業、実光、義清、盛義、親義
義光には義業、実光、義清、盛義、親義らの子がありました。
嫡男の義業は吉田清幹の女をめとって久慈郡佐竹郷に住んだ。その子昌義は佐竹冠者と号し、常陸国に定住するのです。
義清は那賀郡(吉田郡)武田郷に住んで刑部三郎武田冠者と呼ばれています。「武田」は武田郷の地名であり、この地に定住したことを示しているのです。
刑部三郎は父義光が刑部丞なので、その三男の意味です。義光は常陸国への進出にあたり、常陸大橡平重幹・致幹父子と提携しました。那珂川以南の地が常陸平氏の支配下にあるのを知った義光は、那珂川以北に拠点を作ろうとしたのです。そこで致幹の弟の吉田清幹に近づき、その女を嫡男義業の妻に迎えたのです。こうして義業を久慈川流域の佐竹郷に、義清を那珂川北岸の武田郷に配置することに成功したのです。
佐竹郷と武田郷の地は、ともに水運の拠点でした。佐竹郷は久慈川・山田川の合流点にも近く、古代には河川港があった可能性があります。というのは『旧事本紀』の『国造本紀』によると、久自国造は成務天皇の御代に、物部連祖伊香色雄命の三世の孫船瀬足尼を国造に定めた、とみえます。久自国造の名である「船瀬」は、大輸田船瀬(神戸港)、水児船瀬(加古川市の加古川河口)が示すように河川港と関係のある名であります。また船瀬には船の停泊地、造船所、物資集積地の意味があります。おそらく、久自国造は久慈川・山田川合流地付近にあつた河川港を支配したものと思われます。
那珂川流域の武田郷も水運と関係があります。『和名抄』には那賀郡川辺郷の名がみえます。川辺は川部とも書き、重要河川に置かれ、渡し舟や物資輸送に従事した部民が設けられていたのです。那珂川も古代には重要河川とされていたのです。武田郷の対岸の水戸は三戸とも記され、かって「御津」と呼ばれた可能性があります。『万葉集』巻一の六三にみえる「大伴の御津の浜松」が、巻七の(?)一一五一の歌に「大伴の三津の浜辺」とみえ、伊勢国度会郡の「御津」も『山家集」に「三津」とあり、近江の坂本の津も「御津」(三津)と呼ばれていたのです。御津には難波御津が示すように特別に重要な港の意味があります。御津は中世には御(三)戸とも呼ばれるようになります。『常陸国風土記』那賀郡の条にみえる「平津」は中世には「平戸」となります。岩手県の大船戸もかつては大船津と呼ばれていたのでしょう。水戸もかつては那珂川と千波湖が通ずる大きた入江のようになっており、重要な河川港の役割りを果たしていたのです。
武田の地も那珂川北岸の物資の積出しが行われたことも考えられます。付近の勝倉には船渡がありました。
こうした水運の拠点に義光は、義業・義清を配置したのです。
義光は『尊卑分脈」には「平日、三井寺に住す」とあるので、近江大津の水運の重要性を熟知していたのであります。義光と吉田清幹は、一時はかたり親密な関係にあったようです。浅羽本「武田系図」によれば、義光は清幹の女をめとって義清をもうけています。義清の名も義光の「義」と清幹の「清」をとって付けたことも考えられます。また『尊卑分脈』には、清幹の二男成幹(鹿島三郎)が「義光の郎等」とみえますので、義光は吉田郡の郡司でもあった清幹父子の力を背景に吉田郡や鹿島郡の地にも勢力を伸ばそうとしたことが考えられます。
『尊卑分脈』によると、義清は清光をもうけています。浅羽本『武田系図」では、清光の母は上野介源兼実の女で、天永元年(一一一〇)六月九日の生まれとなっています。その清光は源師時の日記『長秋記」の大治五年(?二三〇)十二月三十日条に、「常陸国司、住人清光濫行の事等を申すたり。子細目録に見ゆ」と記されています。『尊卑分脈』には、義清は「配流甲斐国市河荘出家四十九才」とあり、清光は「号免見冠者、黒源太」とあります。ということは、清光の濫行の罪により父親の義清もそれに連坐して、甲斐国市河荘に配流されたことが知られるのです。親まで連坐にまきこみ流罪という重罪を犯した清光の濫行とは、いったいどんな行為だったのでしょうか。濫行とは今日の乱行の意に類し、「みだりの所行、でたらめな行い」の意味があります。
|




